総合職にコース転換。30歳過ぎて四国から東京へ
営業企画部門で毎日粛々と業務をこなす井本さんに転機が訪れた。入社5年目にして総合職へのコース変更にエントリーする。
「地元採用の人間でも、全国転勤の総合職に転換できる制度ができたんです。それまでも東京本社や全国の社員とミーティングすることがあって、転勤があるのはおもしろそうだなと思っていました」
しかしすぐに希望がかなえられることはなく、エントリーから5年も経って、やっとコース変更が認められた。ちなみに同じようにコース変更した中に、現キリンホールディングス執行役員コーポレートコミュニケーション部部長の佐々木直美さん(2024年3月現在)もいた。
海外ビール担当で本社デビューも「英語」の高い壁が
井本さんはすでに30歳。それまでずっと実家暮らしで四国から出たこともない。尻込みする気持ちにならなかったのか。
「入社して10年、自分が人からどう評価されるのかを気にし始めた時期でした。また、事務のルーティンワークがいくら好きでもこのままでは成長がないと危機感が募っていて。思い切って新世界に飛び込みました」
そして本社へ異動となったが、いきなり「バドワイザー」という海外ビール担当、それも同ブランドがオフィシャルスポンサーとなっていた2002年FIFAワールドカップ大会の担当になった。同じ会社とはいえ、転職したぐらいの劇的な変化だ。180度違う世界に飛び込み、右往左往する日々だったという。
「まずは本社の機能に慣れるのが大変で。それまでとは桁違いの人数の、しかも広い領域の方と関わらなければならないのが当時苦しかったです。しかもワールドカップの担当は上司と私の2人しかいませんでした。その上司が現社長の堀口(英樹)さんです。彼に『なんとかなるよ』と言われましたが、大会の裏側は混沌としたカオス状態。しかも当時キリンは、バドワイザーとハイネケンの2つのライバルビールの販売者だったので、どちらの顔も立てながらことを進めなければいけなかった。これもキツかったです……」
それでも四国時代は事務職でありながら大事な会議に出席し、意見を述べる習慣が付いていた。大海に放り込まれた後も、それほど臆することなく意見を言えたし、ブランドというものに興味を持つきっかけになった。
外食経験のない「キリンの人」とよそよそしくされ…
しかし四国ローカルより格段に華やかな世界だが、井本さんにとってほろ苦い本社デビューに。海外案件につきものの、ビジネス英語の壁に悩まされたのだ。
「一応英語科卒ですが、ビジネス英語となるとまったくダメ。普通レベルの会話もちゃんと理解できなかったです。その時のトラウマで今でも英語が苦手です」
これで自分の評価は下がるだろうと思っていたし、ワールドカップ後のビジネスにつなげていくすべもなかった。今後の身の振り方に悩んでいた時、ある社内公募が目についた。
ハートランドビールのアンテナショップとしての、六本木ヒルズ「バー ハートランド」の立ち上げと現場運営の副店長だ。ハートランドビールは、1986年にキリンから発売したピルスナースタイルのビール。海外製品のようなスタイリッシュなボトルが特徴的で、発売から40年近く経った現在も安定した人気を誇る。
「再開発前の六本木に『ハートランド穴蔵』というビアホールがあったのですが、開発後に『バー ハートランド』として復活することになりました。これはチャンスだ! と思って。外食サービスの経験はないけれど、教えてもらえばなんとかなるだろうと」
だが、そこでも関門が待ち構えていた。
「外食事業部がスタッフを集めていたのですが、キリンから行った私ともう一人以外は皆、外食経験があるプロでした。彼らからは『キリンの人(だけど外食経験がない人)』と呼ばれました(苦笑)。正直言って、当時の私とはハナから仲良くする気がなさそうな印象でしたね。しかもオープンから2〜3カ月は全然お客様が来なかったので、最初は雰囲気も悪かったです」
が、井本さんは諦めなかった。外食経験はないにしても、それ以外の経験は豊富だ。それはきっと役に立つはずだと信じて、スタッフとコミュニーケーションを取り続けた。そのうち「ニューヨークタイムズ日本版」に店の情報が掲載されたことで評判になり、近所に住む外国人が毎日集う繁盛店になる。
「繁盛すると店の雰囲気も良くなるし、“キリンの人”だった私もスタッフと打ち解けました、バーが閉店した今も当時のスタッフとは仲がいいんです」
この時の外食サービス経験は2年だったが、のちにSVBの社長に抜擢される布石となる。