「地元の旧帝国大学」が人材流出を防いでいる
進学校の高校が大学受験の合格者を競うとき、東京大学合格者や東京大学・京都大学合格者の合計が話題になるが、大都市圏以外では、旧帝国大学合格者数が基準にされることが多い。
たとえば、東北地方を見てみると、人口が多い宮城県を除く青森、岩手、秋田、山形、福島の5県では、東京大学の合格者数は合計36人だが、東北大学の合格者数はその10倍以上の479人に上る(2022年度)。北海度における北海道大学、九州地方における九州大学も似たような傾向がある。
しかも、山形県の場合だと東京大学合格者は3校からしか出ていないが、東北大学には11校から合格者を輩出している。一握りのトップ層は東京大学や京都大学を目指すものの、一般の生徒たちが目指す「頂点」は東北大学であり、人材流出のダムの役割を果たしているのだ。
ところで、この旧帝国大学がどういうものなのかを知っている人は、意外に少ないのではないか。そこで、この記事では、明治時代における誕生から終戦後に帝国大学という名称が消えるまでの歴史と、今日の姿を紹介したいと思う。
京城と台北を合わせて9校あった
戦前の帝国大学は、北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州のほかに、京城帝国大学(現在のソウル特別市)と台北帝国大学があって「九帝大」だったが、国内にあるのは7校である。その枠組みが残っているのは、これらの大学の体育部の対抗戦である全国七大学総合体育大会で、「七大戦」というのが正式の略称だが、「七帝戦」と呼んでいる人も多い。
まずは、各帝国大学がどうやって誕生したかを振り返っていこう。
明治新政府は、維新から間もない1872年に「学制」を制定した。フランス法学者で文部省・司法省官僚の箕作麟祥が中心となっていたので、その内容は濃厚にフランス的なものだった。
これは全国を8大学区に分け、各大学区に大学校1校を置き、1大学区を32中学区に、1中学区を210小学区に分けて、全国に大学校8校、中学校256校、小学校5万3760校を置いてピラミッド式の整然とした秩序をつくるというものだった。
ただ、明治政府が最優先としたのが小学校教育の普及だったため、わずか3~4年の間に、2万6000ほどの小学校が設置され、これが地方自治の最小単位にもなっていく。