緒方洪庵の適塾から続く大阪帝国大学

大阪帝国大学(1931年設立)は、1724年に町人たちがつくった学問所である懐徳堂もルーツとしているが、「精神」としてはともかく連続性は認めがたい。1838年に緒方洪庵により設立された適塾のほうがそれなりの連続性はある。

大阪府が1869年に設立した仮病院と仮医学校に、緒方洪庵の次男である緒方惟準ら適塾の関係者が参加していたからである。それが大阪府立医学校、府立大阪医科大学を経て1931年に大阪帝国大学医学部となった。また、1896年設立の大阪工業学校をルーツとする、大阪工業大学を1933年に吸収した。

名古屋大学は、尾張藩種痘所の人たちが提案して名古屋県仮病院・仮医学校が設置された1871年を「創基」とし、名古屋帝国大学となった1939年を創立としている。これが国内7番目の帝国大学だ。さらに、1940年には理工学部が創立された。

次に、外地に設置された帝国大学について見ていこう。

京城帝国大学(1924年設立)は、朝鮮総督府の管轄で最初に予科が、ついで法文学部と医学部が置かれた。文政学部、理農学部でスタートした台北帝国大学(1928年創立)も台湾総督府の管轄で、終戦後そのまま国立台湾大学になった。京城帝国大学は京城大学と改称したものの、1946年に米軍により廃止されたため、現在のソウル大学は施設等を継承しているだけで連続性はないと自称している。

京城帝国大学と台北帝国大学
京城帝国大学と台北帝国大学(写真左=新光社『日本地理風俗大系 第16巻』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons、右=毎日新聞社『昭和史 別巻1 日本植民地史』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

韓国・台湾における帝国大学の評価

こうした外地における帝国大学などについて、主に保守派は「日本の外地統治が欧米のような植民地からの収奪でなく、地元の発展を願ったものだ」と指摘するが、韓国人などからはいろいろと反論がある。

たしかに、総督府監督下の日本語で教える学校は現地支配に役立つし、学生数も当初は日本人のほうが多かった。しかし、韓国の場合で言えば、近代的な初等中等教育の発展が内地より半世紀近く遅れて始まったため、帝国大学の教育についていける学生がはじめは少なかったのだから致し方なかった。

終戦後、日本の無条件降伏と、米占領軍や中華民国政府が邦人の引き揚げを強要したことによって日本人教官が引き継ぎなしに退去したのは残念なことだったし、幼少期から日本語で教育を受けていた学生は突然、習熟しない言語で学ぶという犠牲を強いられた(そのため、戦後しばらくは日本語文献が広く使われていた)。

こうした変化が、旧宗主国の言語の使用が広く続いた欧米植民地に比べて、韓国や台湾の経済・文化発展の足かせになったことは否定できまい。