あらゆる未来は己の意思を超えたところに

「因縁」に関連するのが、2の「諸法無我」です。

その本来の意味は、「この世のすべての物事は因縁によって生じたもので『私』という実体もない」ということです。

たとえ自分の指であっても、切られればおしまいです。財産なども失えばおしまい、地位も裏切られればおしまい。だから、「わがものなぞないぞ」というわけです。そもそも自分というものがないのですから。

そして、地位を失ったり、財産を失ったりするのは、さまざまな因縁によると考えるので、すべてが因縁で得たり失ったりするけれども、「自分のもの」ではないということになります。

これをさらにつき詰めると、誰も自分の意思で何が起こるかを決めることはできない。あらゆる未来は己の意思を超えたところで、そうなるよう定められている、ということになります。

「因縁」というのは、あらゆる「関わり合い」です。

私たち一人ひとりに当てはめるなら、誰もが生まれてから現在まで、いろいろな人に出会い、いろいろなものを手にとり、いろいろな出来事に遭遇してきています。

こうした関わり合いのすべてが、私たちの過去の出来事を決め、今の境遇を決め、さらに未来をも決定しているわけです。

さまざまな因縁を持った人々が、それぞれの因縁の結果、それにふさわしい誰かと出会い、情報に出合い(本書を手にとり、読んでくださっているのも因縁によるものです)、その結果、「未来に何が起こるか」が決まると考えていたわけです。

街を歩くビジネスマンが、光の反射でぼやけているイメージ。
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いやいや、寿命・運命を変える道はある!

中国・明の時代の袁了凡という人物が書いた、『陰騭録』という有名な古典があります。その中にある逸話です。

あるとき、親孝行な了凡の家に旅の占い師が来て、言いました。

「お前はすばらしい。これから先、28歳のときに役人になるための科挙の試験を突破する、40歳のときに結婚し、この郡の郡長になり、これこれこんな人生を送る……」と、了凡の一生涯で起こることをことこまかに予言したのです。

そして実際、科挙の試験は、その老人が予言したとおりの点数で突破することができました。

そこで了凡は、「ああそうなんだ。人生は全部決まっているんだ」と思い込み、その話を有名な禅僧にしたのです。すると了凡は、禅僧に「お前はなんて馬鹿なことを言っているんだ」と一喝されます。

「昔から、積善の家には必ず余慶(祖先の善事の報いによって子孫が受ける吉事)あり。いいことをすれば必ずいいことが起こるというではないか。お前はこれから毎日いいことをして、『今日はこういう善事をした』と書き留めるようにしなさい」

了凡が言われたように実践したところ、彼は、かつて占い師が予言した地位よりも、もっと高い位の職に就くことができたのです。

そして「できない」と予言されていた子どももでき、予言された死の年齢よりもずっと長く生きることができました。

つまり、この話からいえることは、未来をよりよいものに変えたいと思うなら、よくないことの原因を過去に求め、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔していても仕方がないということ。

それよりも、今からの「因縁」を変える必要があるのです。

明日やるべきことを前倒しして今日やる、ということを繰り返して予定をいっぱいにすることよりも、今まで実行してこなかった「今やるべきこと」や「誰かのためになる、いいこと」に取り組んでいけばいい、そうすれば、よりよい未来がやって来るということです。