昔、弟がわたしの結婚披露宴の司会をしたとき、弟は用意周到に準備をして臨んだのだが、いざ本番になると、緊張のあまりしどろもどろになってしまい、進行も無茶苦茶になった。ところが後に、妻の親類たちが口々に「あなたの弟さんはいい人だ」と絶賛したのである。これがもし、プロの司会者のように流暢な司会進行ぶりを披露していたらどうなっていただろう。「弟さんは司会のうまい人だ」という評価は受けたかもしれないが、「弟さんはいい人だ」と言われることはなかったに違いない。人は、自分より優れた人には好感を持ちにくいものだ。
仕事や披露宴に限った話ではない。人生のありとあらゆる場面において「感じがいい」と思われることは、生きるうえでこのうえなく大きなメリットをもたらしてくれるのだ。
かくいうわたしも30代の半ばまでは人並みに、「教師たるもの、学生に対して弱点を見せてはいけない」と強く思っていた。実際、学生からは「ツチヤはカミソリのような人間だ」と評されるなど、近寄りがたい雰囲気を発していた。しかし、ある出来事を契機に、わたしはその認識を新たにすることになった。哲学の講義で「カテゴリー」という概念について説明しようとしたときのことだ。
「カテゴリー、といっても君たちにはわからないと思う。日本語では範疇というが、それでも君たちにはわからないと思うから、文字で書いてあげよう。範疇とは……」
わたしは無知な者に教える優越感にひたりながら黒板に向かった。が、“範”は難なく書けたものの“疇”の字がどうしても出てこない。狼狽を隠しながら仕方なく“範ちゅう”と書くと、学生の間から失笑がわき起こった。わたしは哲学者が哲学用語を書けないという恥辱を味わったのだ。
しかし、後日わたしは思い直した。教師は教祖ではない。学問を教えたり、一緒に知見を得ようとする以上、学生にはどんな偉人の主張でも鵜呑みにしない人間になってもらうのが教師の役割である。とくに哲学は、学生に「自分の頭で考える」ことを教えるのが目的だ。教師が話したことをそのまま覚えてしまったのでは哲学を教えたことにはならない。しかし、尊敬する教師の言うことであれば、学生たちはきっと鵜呑みにしてしまうであろう。
こう考えて、尊敬される人間になる道を捨て、尊敬されない人間になろうと日夜努力を重ねた(幸い、わたしは険しくないほうの道を選ぶタイプである)。バレンタインデーに他の教授が学生からチョコレートをもらっているのに、だれもわたしにくれないことに腹を立て、研究室の扉に「バレンタインデーのチョコレートはお断りします」という張り紙をしたこともあるぐらいだ。
そうした努力が花開いて、やがて学生のほうでも、わたしを尊敬するのは恥だと思うようになった。わたしのような尊敬できない人間が「ソクラテスは間違っている」などと偉大な哲学者の悪口を言っているのを見て、学生たちは「絶対にツチヤのほうが間違っている」と考えて、わたしの間違いを論証しようとして自分の頭で考えるようになったのである。
こうなればしめたものだ。わたしは「学生に対して弱点を見せてはいけない」という長年の呪縛から解放され、毎日軽やかな気分で通勤できるようになったし、学生たちも気軽にわたしに質問をぶつけてくるようになった。