2度めの離婚

猫田さんが3歳になった頃、父親からの養育費の振り込みが途絶えた。祖母はすぐに気付いたが、父親に催促はしなかった。母親は気付いていたかどうかさえ不明だ。

やがて猫田さんが4歳になると、母親(当時24歳)は2度めの離婚をした。どうやら母親は再婚後、2番めの夫からひどいDVを受けていたらしいが、再婚するときに祖母から言われた「3年持てばいいわね」という嫌味に反発するために、意地で3年耐えたのだった。

2度めの離婚をした母親は実家に戻ってきた。そのとき、母親の荷物にたくさんのぬいぐるみがあった。4歳の猫田さんは、ぬいぐるみが目に入ると、「わー、かわいい! 私にもちょうだい!」と飛びついた。

すると母親は嫌そうな顔をし、「これならいらないからあげるわ」と言ってたくさんある中からひとつだけ渡した。

母親が戻ってくると祖母は、「生活費の援助もするし育児も手伝う。あなたは数時間パートに出てくれる程度で良いから、この家でみんなで奈理子を育てよう!」と提案。しかし母親は、「こんな田舎じゃ仕事がない。こんな家にいたくないわ!」と言って1週間もしないうちに出て行ってしまった。

街に出て、水商売の仕事に就いた母親は実家に来なくなり、代わりに祖母と猫田さんが母親が暮らす街に出ていき、主要駅周辺で会うようになる。

だが母親は、「気が変わった」「面倒くさくなった」などの理由で約束した日時に来ないことも多く、ドタキャンされる度に猫田さんはひどく落胆した。

「両親がいない」という傷

3歳から猫田さんが幼稚園に通い始めると、祖母は他の母親たちに、「奈理子ちゃんのお母さんって、水商売やってて男の人と暮らしてるんですよね? だから一緒に暮らしてないんですよね? 幼稚園のママさんたちの間で噂になってますよ!」と言われ始めた。

「祖母はこの時50歳ぐらいで、祖母としては若い年齢でしたが、やはり母親ではなく祖母なので、他の母親たちと馴染めず、孤立していました」

祖母だけ母親たちの集まりに呼ばれないことも珍しくはなかった。また、友達の家に遊びに行くようになると、友達の家には両親やきょうだいがいることに気付き、「何で自分の家にはお父さんとお母さんが一緒に暮らしていないんだろう?」と疑問に思うようになる。

祖母はそんな猫田さんを気遣い、幼稚園の行事には母親に来るように言い、時にはお金を渡してまで来てもらうようにしていた。しかし行事が終われば「じゃあね!」と言ってさっさと帰っていく母親の後ろ姿に、猫田さんは毎回心を痛めていた。

小1になり、字が書けるようになると、猫田さんは母親に手紙を書いた。母親は「ありがとう」と言って受け取ったが、後日感想を聞くと、「ごめん読んでない! どんな内容かも見てない! どこかにやっちゃって、捨てたかも!」と冷たく言い捨てられた。

すりガラスの向こう側でうなだれる少女
写真=iStock.com/stevanovicigor
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またあるときは、中にお菓子が入っていて、サンリオのキャラクターが描かれたかわいい缶を母親が見せびらかし、「これ、かわいいでしょ! でも私が欲しかったのは缶だけで、お菓子は太るしいらないからあんたにあげるわ!」と言ってお菓子だけ渡された。

そこで猫田さんが「私もその缶がほしい!」と食い下がると、母親は「これは私のだからダメよ!」と言いながら猫田さんを払い除ける。

それを見ていた祖母は、「小さい子と本気で張り合って情けない。奈理子は欲しがって当たり前の年齢なんだから、これからは2つ買ってきなさい! あんたはいつも自分のことばかりだけど、自分の子どもが大切じゃないの?」とたずねる。

すると母親は、「私はたぶん生まれつき母性本能がないんだわ」と平然と答えた。この頃から猫田さんは、「母親は自分にあまり愛情を感じていない」ということを確信し始める。

猫田さんは思い切って、「ママの一番大切な人は誰? ママは自分と私だったらどっちがかわいい?」と母親にたずねた。

「そんなの自分が一番大切に決まってるでしょ! 世界で一番かわいいのは私よ!」母親は真顔で即答した。

「現実を突きつけられた私はひどく悲しみましたが、こんなことを言われてもまだ母のことが好きでした。子どもはみんな、大人が想像しているよりもずっと、親のことを愛しているのだと思います」