「生きている間は絶対に売らない」

ほんの5分ほどの間、穐田は黙ってタグを掲げ続けた。そうしているうちに、ハンマーが鳴った。オークショニアが告げた。

「ナンバー55」

周りに座っていた人たちは「落札したのは日本人だな」という視線を送ってきた。居心地はよくない。

フェルメールさえ終われば帰ろうと思い、席を立った。すると、クリスティーズの社員が近寄ってきて「取材の方が来てますよ」と告げた。

穐田は首を振った。新聞に自分の笑顔とピースマークのポートレートが出ることは避けたかった。

ひとこと「いいえ、このまま帰ります」とだけ言った。

社員は裏口へ案内してくれたので、そこから抜け出て、ホテルの部屋に戻り、置いてあったリュックだけ手に持ち、空港へ向かった。

機内で、彼は考えた。「買っちゃった。さて、どうしよう。うちに置くわけにもいかないし」どうやって10億円を払おうかという算段もした。そして、「せっかく買えたのだから、生きている間は絶対に売らない」と決めた。

やはりユーザーファーストだ。日本のどこかにフェルメールの絵を飾っておけば、誰か欲している人間が見にくる。インバウンドの観光客も見にくる。日本に金が落ちる。普通の美術コレクターが考えることとは違う。彼はフェルメールを日本経済の活性化に使おうと思った。

いわゆる美術コレクターの考えではない。

くふうカンパニー代表の穐田誉輝さん
撮影=西田香織
くふうカンパニー代表の穐田誉輝さん

「変えるべきサービス」を数えたら100を超える

くふうカンパニーの中ではもっとも長く穐田と働いている新野将司は、アイシーピー時代の穐田について、こう話した。

「アイシーピーは発足した当時、大勢の優秀な人材を集めていました。それこそ興銀(日本興業銀行、現・みずほ銀行)や総合商社やコンサルから来ていました。アイシーピーは投資だけをしようとしたわけではなく、投資と事業をつくることの両輪でやっていこうと決めていたからです。

あの時、僕は26歳。穐田さんは31歳でした。穐田さんは長髪の茶髪で全身Gucci。本人は『これがオレたちの会社のブランディングなんだ』って言ってましたね。『オレたちはチャラチャラしてるけど、ガーッと働いてるやつらだと世の中に思わせればいい』って。まあ、僕もチャラチャラしてましたね、あの頃は。

アイシーピーがやろうとしていたことははっきりしてました。現状の生活に不満があったから、ネットで生活を改善するサービスをするんだ、と。穐田さん、口を開けば『こんなサービスは使いづらいからダメ』と言ってました。

ネットを使って変えるべきサービスのリストをつくっていて、100以上はありましたね。レストランの口コミやレシピのサイトはそのなかから生まれてきたんですよ。