幼少期の両親
吉野さんは、セピア色の生地に同系色のビーズや刺繍などの細かな装飾が施されたタンクトップの上に、白い透け感のあるシャツを羽織り、パンツスタイルで現れた。明るめの色に染めたショートヘアが若々しい印象で、目鼻立ちのはっきりした顔立ちによく似合っていた。吉野さんは「烏龍茶」を注文。驚くことに、吉野さんは20歳くらいの頃から、1日1食で暮らしているという。理由をたずねると、
「夜飲み歩くことが増えて、3食摂ってしまうと太ることを気にしたのが一番の理由です。母が太っていたので、『母が父に愛されないのは、太っているからでは?』という思い込みもありましたし、少しでも外見を良くして、他人に承認されることを目的としていました。でも今は、1日1食の生活に慣れてしまったので、そのほうが体が楽なだけなんですが……」と少し照れくさそうに答えた。
「育った家族が嫌いだった」という吉野さんは、両親のなれそめをあまり詳しくは知らなかった。だが、両親は20代の頃に、「囲碁クラブで知り合った」ということは知っていた。20代の男女が知り合う場としては予想外で、私は思わず、「渋いですね」と言ってしまった。どのくらい交際し、何歳で結婚したのかもわからないが、自身の年齢から計算するに、父親が26歳、母親が25歳の頃に吉野さんが生まれ、2年後に妹が生まれたのだと話す。
「父は無口で、イライラをオーラで出す人。機嫌が悪くなると、無意識に舌打ちを繰り返すんです。両親がケンカをすると、1〜2カ月は無言の食卓が続きました。両親は、子どもの前ではケンカをしませんでしたが、お互いの嫌悪感は隠しきれず、目も合わせません。そうなると私たち姉妹は、喋ることも立ち去ることもできず、黙々と食べ続けることしかできませんでした」
父親は通信系の会社に勤め、母親は家で内職をしていた。
「母は自尊心が低い人で、『私がダメだから』『すべて私が悪い』が口癖。うつ傾向、胃腸虚弱、重度の貧血などで働きに出られないため、いつも父に引け目を感じていて、『お父さんは、他の人と結婚していたら、もっと幸せになれたのに』と言っていました。自分に自信がなく、笑顔がなく、子ども心に私は、『お母さんは生きていて楽しくなさそうだな』と思っていました」
幼い頃吉野さんは、母親に自虐的なことを言われる度に、「そんなことないよ! お母さんは料理上手だし、できる範囲で頑張って働いているじゃない!」と、励ましていた。母親が高熱を出して寝込んでいるときは、「お水持ってこようか? 薬飲む?」と気遣ったが、「自分でできるから、あっちに行ってなさい」と冷たくあしらわれ、「こんなときくらい頼ってくれればいいのに」と悲しくなった。
また、父親に対する引け目からだと思われるが、母親は子どもの失敗を執拗に咎める人だった。
「冬場に手袋をどこかで落としてしまったときは、『またなくしたの! あんたはどうしていつもそうなの! またお父さんに報告しなくちゃならないじゃない!』と頭ごなしに怒られました。自分でも十分反省しているのに、重ねて怒鳴られるのは、子ども心にきつかったです」
吉野さんは成長するにつれて、母親に味方する気持ちが薄れ、代わりに哀れだと思うようになっていった。