混浴を「恥ずかしい」と感じていなかった江戸時代の日本人
その仕組みとして、「男性が性的欲望の視線で見る→女性が恥ずかしいから隠す→男性は隠されるから余計に見たくなる」といった「欲望の視線と羞恥心の往復回路」が存在すると思われます。
男性からすると、「女性が恥ずかしがって隠す→男性は隠されるから見たくなる→女性はますます隠す」と思うかもしれませんが、「鶏が先か卵が先か」のような議論になるので止めておきましょう。つまり、性的欲望と同様に羞恥心もまた、歴史的・文化的に形成されるのです。何が「恥ずかしい」かは、時代・地域によって異なるということです。
20世紀中頃に欧米人女性が恥ずかしいと感じたことを、それより100年前の日本人女性が同じく恥ずかしいと感じていたか? というと必ずしもそうとは言えません。この話については、中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか 日本人の羞恥心』がとても参考になります。
以下の図は、アメリカ海軍提督M.C.ペリーの『日本遠征記』(1853〜54年)に記録画家として随行したヴィルヘルム・ハイネが描いた「下田の公衆浴場図」(1854年)です。
画面左手のボックス状に区切られた棚のある場所が脱衣所です。脱衣所は男女別になっているようです(棚の裏側が女性スペース)。しかし、L字形に溝がある洗い場はまったくの男女共用です。中央手前に女性のグループ、その右に男性のグループ、そして奥の壁際にまた女性のグループと分かれていますが、男女混浴です。
そして、女性たちはまったく乳房を隠していません。つまり、男性は女性の乳房を日常的に見慣れていることになります。ちなみに湯舟は左奥の「屋形」がついているところ(入口で屈んでいる)の中にあり、男女一緒です。
「失われた習俗が残っている」と欧米に衝撃を与えた
さらに言えば、見知らぬ外国人男性が入ってきてスケッチを始めたのに、女性たちはほとんど恥じらっている様子がありません。ひとりだけ中央手前の女性が画家に意識を向けているように見えます。つまり、江戸時代の伊豆下田の女性たちは、男性と混浴して全裸を見られても、ほぼ羞恥心を感じなかったのです。ただし注意しなければならないのは、羞恥心がないのではなく、羞恥心の在り方が現代の女性とは違っていたということです。
将軍様のお膝元の江戸では、町奉行所が「男女入り込み湯」(男女混浴)を禁止するお触れを何度も出していて、それに応じて、男湯と女湯を仕切っていました。でも遮蔽はされていません。男湯と女湯を見えないように遮蔽する(しなければならない)発想は、完全に近代(明治時代以降)のものです。
余談ですが、この「下田の公衆浴場図」は、ペリー提督『日本遠征記』の数ある挿絵の中で、最も欧米世界に衝撃を与えた絵でした。反応は大きく2つに分かれ、男女が裸で入浴するなんてなんと淫らで未開な民族だという批判。もうひとつは、すばらしい! 失われたギリシャ・ローマ的世界の習俗が、極東の島国に残っていたという賛美です。後者の人たちの中には、混浴を体験したくてはるばる海を渡って日本に来た人もいたようです。
同時に、こうしたすばらしい習俗も、キリスト教徒の目に触れたら遅かれ早かれ消えるだろうといった予言もありました。その予言は約20年後に現実になります。