昭和と同じ山で良かったのか?

これを登山に当てはめてみれば、高度経済成長以来、ずっと登り続けて山の頂上に至る過程が昭和という時代であり、以後30年にわたって、同じ山をずっと下り続けているのが平成という時代だったと整理できます。時代が昭和から平成へと変わったものの、同じ山の「登り」と「下り」でしかないということです。

急降下するジェットコースター
写真=iStock.com/DNY59
※写真はイメージです

多くの人は、平成という時代が「下り」に終始したことを問題として取り上げているようですが、ここで私が取り上げたいポイントは「登り、下り」の問題ではなく、そもそも「同じ山で良かったのか?」という点なのです。人間性を麻痺させるようなバブル景気が健全なものであったと真顔で言い切れる人はなかなかいないはずです。しかし、これを本当に「終わらせている」人たちがどれほどいるのか。

経済とは別のモノサシで山を登り始める必要がある

私たちは、昭和という時代から平成への移行に当たって、「バブル景気の終焉」といみじくも表現される「終わらせる契機」を与えられていたにも拘わらず、結局は「あの時代は良かったね」と、山の頂上を振り返りながら下山する過程に終始してしまったのではなかったか。

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本来であれば、昭和という時代に登った山とは別の新しい山をターゲットとして定め、登るべきだったのに、同じ山に踏みとどまりながら、頂上にいた頃の栄華を懐かしみながら、いつかまたあそこに戻れるのではないか、という虚しい期待を胸にしながら、ずるずると後ろを振り返りながら、ビジョンもないままに同じ山を下り続けてしまったように思います。

昨今、昭和のバブル期に象徴されるような経済・金銭・物欲一辺倒のモノサシを否定する大きなうねりが地殻変動のように動いているのを感じますが、これは「バブルを終わらせる必要のない」世代によって牽引されているように思います。

ポスト平成への移行において、日本がかつての経済大国とは違う形で、世界の国からリスペクトされるような国であり続けるためには、経済とは異なる別のモノサシでの登山を始めなければならないわけですが、そのためには、昭和を体験している人たちが、本質的な意味でこの時代へのノスタルジーを終わらせることが必要なのではないかと思います。

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