突然の父の訃報

予定通り、私は27歳でマナー講師として独立を果たしました。ですが、独立してすぐに仕事をいただけるほど世間は甘くありません。私は並行して派遣社員として商社で働くことにしました。じつは、派遣社員になったのも、マナー講師として力をつけるための修業でした。

西出ひろ子『突然「失礼クリエイター」と呼ばれて』(きなこ出版)
西出ひろ子『突然「失礼クリエイター」と呼ばれて』(きなこ出版)

当時の私は、名の通った大手企業から依頼をいただくことが、マナー業界での一つの成功であると思っていました。そのチャンスを逃がさないためにも、大手企業の仕事がどんなものか、身をもって知っておくことが必要だと考えたのです。簿記の資格を持っていたので、それをアピールして、伊藤忠商事の本社で派遣社員として採用してもらいました。

しばらくはウィークデーに派遣の仕事をし、週末に細々とマナー講師の仕事をするという二足のわらじで生活を維持していました。航空会社出身者でないことは、明らかにハンディキャップでした。何か箔をつけなければと、とり組んだのが、秘書検定試験です。

秘書検定準一級の二次試験では面接や実技の試験がありました。ある日突然、思ってもみない朗報が届きました。この試験で日本秘書検定協会連合会会長賞をいただくことができたのです。

この検定試験では筆記試験と面接試験の両方があり、どちらも優れた成績を収めた者が選ばれます。その面接で、議員秘書やジャーナリストの秘書の経験が大いに生きました。賞をいただいたのが29歳のとき。この受賞を機に、マナー講師としてやっていく自信を身につけることができました。

亡き父に日本一のマナー講師になると誓った

苦しいなかにも自分の道を貫くことができたのは、じつは父の支えがあったからです。

周囲の人が皆、マナー講師になることを反対するなかで、唯一、父だけは「やりたいことをやれ」と背中を押してくれました。だから表彰式では晴れ姿を父に見てもらいたかったのですが、会場には父の姿はありませんでした。なぜならその直前に、父は自ら命を絶ってしまったから……。

私は硬く、冷たくなった父に、日本一のマナー講師になると誓いました。その気持ちは、29歳のときから今日に至るまで、私の胸のなかにずっとあります。

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