政権代理人の「大老」ではなく政権主宰者という立場を取る
羽柴政権のもとでは、各地の有力大名はすべて羽柴名字を称する公家成大名とされて、政権はそれらの大名を統合する体裁がとられていたのである。いわゆる「五大老」の有力大名も、もちろんすべて羽柴名字を称していた。ところが合戦を契機に、「大老」筆頭であり、政権執政であり、諸大名中もっとも政治的地位が高かった徳川家康と、その子秀忠・秀康は、羽柴名字を廃し、本来の徳川名字あるいは松平名字を称するようになったのである。このことが持つ外見的な意味合いは大きいといわねばならない。
それまで家康は、羽柴家の「御一家」の一員として、政権執政の立場にあったという体裁がとられていたのであったが、以後は「御一家」を名目にするのではなく、合戦勝利者として、政権執政にあたることを意味するものとなったからである。
関ヶ原で負けた大名たちの領地を独断で取り上げ味方に与えた
そのうえで10月にはいると、いまだ一部地域においては戦時体制が継続されていたものの、家康は、合戦で敵方になった大名たちの領知の没収・削減と、味方した大名への領知の加増転封を行った。そこで対象になったのはすべての大名であり、羽柴家の唯一の一門衆であった小早川秀秋をはじめ、羽柴家譜代の有力大名の福島正則・池田照政(輝政)・浅野幸長・加藤清正・黒田長政らにもわたっていた。
この領知宛行について、茶々・秀頼の関与はまったくなく、すべて家康の独断によるものであった。理屈的には、政権運営は家康に任されているので、そこに茶々・秀頼の意向が入る余地はなかったのである。
こうした家康による諸大名への領知宛行は、石田・大谷が挙兵する以前になる、慶長5年2月の森忠政への信濃川中島領の宛行や、長岡(のちに細川)忠興への豊後杵築領の宛行などがみられていた。石田らは、こうした家康の行為に強く反発して、挙兵に及んだのであった。そうした石田らに勝利した家康にとって、戦後その路線を踏襲するのは至極当然のことであったろう。