二の丸に息子・秀忠を駐在させ徳川家による統治を始める
合戦が、理論的には政権内部の権力闘争であったとしても、江戸方の総帥であった徳川家康が勝利したことは、その後の政権の性格に、少なからぬ変化をもたらすことになった。家康が、秀頼に対面した後、大坂城西の丸に復帰したことは、石田・大谷挙兵以前に戻ったにすぎないともいえる。
しかし、その立場の在り方は、それまでと比べると大きく異なるものになっていた。西の丸だけでなく、二の丸に家康嫡子の秀忠が在城したのである。いうまでもなく大坂城は、羽柴家の本拠であり、城内に在城できるのは、羽柴家の家族に限られていた。家康が西の丸に在城してからは、政権執政が在城するものとなったが、新たにその嫡子の秀忠が在城するようになったことは、政権運営は徳川家によって行われることを示すものとなった。
秀吉死後の政権の執政体制は、いわゆる「五大老・五奉行」であったが、すでに「五大老」のうち、(前田利家の嫡男)前田利長は家康に屈服しており、ここに石田・大谷に味方した毛利輝元も家康に屈服、宇喜多秀家は没落した。残る上杉景勝も、この時はまだ交戦状態にあったが、やがて家康に屈服してくることになる。
「五奉行」のうちでは、すでに石田三成・浅野長政は失脚していたうえ、三成は挙兵により政治復帰したものの、この合戦で没落、石田・大谷に味方した残る三奉行のうち、長束正家は9月30日に自害し、増田長盛は領知を没収され、高野山に幽閉となり、前田玄以のみが赦されたにすぎなかった。
家康・秀忠は合戦後「羽柴姓」を使わなくなった
秀吉死後の執政体制の「五大老・五奉行」制は完全に崩壊し、執政は「大老」筆頭の徳川家康のみが担うことになった。そしてその政治は、実際には家康の嫡子秀忠をはじめ、その一門・宿老たちがあたっていくことになる。諸大名との取次も、それまでは「五奉行」をはじめとする羽柴家直臣が担っていたのであるが、合戦後は、井伊直政・本多忠勝・本多正信など、家康の宿老が担うようになっていった。これは完全に、政権運営は徳川家によって執り行われたことを示している。
そのことを象徴する出来事といえるのが、家康・秀忠父子が、合戦後は羽柴名字を称さなくなったことであろう。それまで家康は「羽柴江戸内大臣」、秀忠は「羽柴江戸中納言」、秀忠の庶兄の秀康も「羽柴結城宰相」というように、いずれも羽柴名字を称していた。羽柴名字は、政権主宰者の秀吉・秀次・秀頼といった羽柴家当主の名字であり、秀吉はそれを、旧織田家臣や旧戦国大名など服属してきた有力大名に対して、公家成の身分(従五位下・侍従以上の官職)とともに与えて、羽柴家の「御一家」として、政権内の政治秩序のなかに位置づけていたのである。