母性という「神話」の危うさ

●ボーヴォワール――母性という神話

母親になるということは、人生をがらりと変えるすばらしい経験だ。そこからアイデンティティや充足感、意義を得る人は多い。それまでの人生を解体し、根本から構築し直して、母親である自身の存在をまるごと別の人間の生に、自身の子どもに、注ぎ込む。

ボーヴォワールはこうした態度のすべてが母親であることを危ういものにしているととらえた。母性と呼ぶものはよくよく注意して扱わなければ母も子も傷つける、と警鐘を鳴らした。

赤ちゃんと母親の手
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フランス実存主義を代表する一人だったボーヴォワールは1949年、『第二の性』(新潮社)で、人間、なかでも特に女性は、社会があてがおうとしてくるアイデンティティやラベル、神話を乗り越えねばならないと明快に訴えた。

女性の場合、この世に生まれた瞬間からそれは始まる。社会を支配する「神話」、「女」を不当に定義しようとする有害な「神話」の解体を『第二の性』は目指した。その神話の一つが「母」だとボーヴォワールは指摘する。

母性という神話では女性を「生まれながらの養育者」とみなす。そこでは子をもつことに女性の本質のすべてが振り向けられる。惜しみない愛をイエスに注ぐ聖母マリア像に体現されるように、母親たる者は究極の利他的な純愛にのっとって生きることを期待される。だがボーヴォワールは「母性本能は神話である」と断言する。女性は母になることを選ぶのだ、と。

女性に特定の形を押し付ける

母になる選択をした女性は、子との関係において自身を再定義するとボーヴォワールはみる。わが子をコントロールする中で、まず両親、次に夫、そして広く社会全般によって否定されていた、自分には力がある、自由があると思える感覚を与えられるからだ。自分は何者であるかのアイデンティティのすべてが「母であること」に集約され、自身の夢や自由は「生まれながらにして母親」神話の犠牲に捧げられる。

この実態は好ましくない形で現れる。例えば母親が「こうなれたかもしれない自分」の身代わりとして子どもを利用するがゆえに、操り人形を操るように子の人生を自分の人生として生きるケースもあるだろう。

自由がきかない束縛された生活になった原因を子どもに見いだして腹立たしくなり、わが子を怒ったり邪険にしたりするかもしれない。身勝手なルールをつくって振りかざすことによって、奪われた自由や力が自分にもまだあるんだと思おうとするかもしれない。

さらに、母親であるというアイデンティティは必ず一定の期間に限られる。子はいずれ個人としての自由と独立を求めるが、母親が抑えつけたりまとわりついたりして阻止しようと試みるかもしれない。だからこそ、子を「母親の地平の限界としてはならない」のだ。

母性は複雑であり、母性をめぐる感情が込み入ってとらえづらいことをボーヴォワールはわかっていた。現在では、産後うつの存在や、母親としてのありかたは一様に決めつけられないとのとらえかたが以前より広く認知されている。

ボーヴォワールの考察に同意するしないは別として、一つ確かにいえるのは、「こう行動すべき」「こう感じるべき」と特定の形を押しつける「神話」は何であれ警戒すべきだということだろう。