「ら抜き」言葉を使う人がじわじわ増加中

衆議院議員選挙では新聞社が各政党に、訴えたいテーマなどのアンケートを取っていました。ある政党の回答の一部に「生きれる」という文言がありました。これは「生きられる」が文法的に適切です。

見れる、来れる、出れる……などのいわゆる「ら抜き」は、話し言葉ではむしろ普通になった感があります。事実、2021年秋に文化庁が発表した2020年度「国語に関する世論調査」で、いくつか例文を示し、普段の言い方として「来れますか」「来られますか」のどちらを使うかなどと尋ねたところ、「来れますか」が若干上回りました。同様の調査では、2015年度に「見れた」が「見られた」を逆転。そのときより今回「見れた」の比率は大きくなり、新たに「来れますか」が、「ら抜き」を使う人が多い側に加わったことになります。

複数の国語学者は「ら抜き」は日本語の乱れではなく必然的な変化だという見解を述べています。私なりにまとめると、「ら抜き」の伸長には「合理性」「歴史性」の二つの背景があります。「来られますか」だと尊敬の意味なのか可能の意味なのか分かりにくいので「来れますか」の方が選ばれる、という合理性。歴史性の面では、「行ける」「書ける」などという可能動詞は室町時代から発生したとされ、それが現在「来る」などにも及び始めたということです。

「生きれる」を読者はどう捉えたのか

ただし、それを説明したうえで『岩波 日本語使い方考え方辞典』は「今のところ、フォーマルな場面や文章では使うべきでないという意識が強い」と記します。だから、新聞では「ら抜き」は避けています。地の文はもちろん、インタビューで話し手が「来れる」と言っても「来られる」と直して記事にしています。

テレビでも同様で、出演者が「見れる」「来れる」などと「ら抜き」を使っても、字幕では大体「見られる」「来られる」と「ら」を入れています。もっとも、どこまで直すのかはその時々の判断のようです。別の言葉ですが、あるバラエティーで番組側のスタッフが「パクった」と言ったのに字幕は「拝借した」と変えられていました。しかしその取材相手である一般の人は「パクらない」と発言そのままの字幕を付けていました。身内の発言は直していいけれど、よそ様の言ったことはそのまま記すべきだという判断なのでしょうか。

それはともかく、冒頭のアンケートはどうしたかというと、「生きれる」のまま載せました。記事に「回答は原文のまま掲載」とあったからです。とはいうものの、これを見て「政党ともあろうものが日本語を大事にしないのか」と、「ら抜き」反対派の票が逃げていくことが全くないともいいきれません。それでも原文のままにした判断がよかったのか、ちょっと気になります。

(2021年11月28日 岩佐義樹)