母親の涙

退院後は、ずっと計画しては母親の体調が優れずキャンセルしてきた、ホテルのランチへ家族5人で出かけることができた。

その後、新しい薬に切り替えるための1週間の入院に入り、退院。抗がん剤治療を計4クール受け、新しい免疫療法を始めたものの、ほとんど体調に改善が見られない母親は、家の中でほとんどの時間、横になっていた。認知症の父親は、母親ががんであることを覚えていられず、「おい、どうした? 寝るならメガネ取りなよ」といつもメガネを外してしまった。

ある日、起き上がった母親がメガネを探そうとしたところ、クッションに足を取られ転倒。春日さんの家は、2、3階が両親の居住エリア、1階が春日さん夫婦の居住エリアだ。2階からものすごい音と衝撃があったため、春日さんは急いでまだ8カ月の娘を抱きかかえ、2階に上がる。すると倒れた母親の側で、父親がしゃがんでいた。

真っ青になって駆け寄る春日さんとは対照的に、父親は、「なんでこんなところで転ぶんだよ〜、おっちょこちょいだなぁ」と言って笑っている。

母親は、「あなたがメガネをとるからよ‼」と珍しく大声を出す。父親は「こんなところで転ぶなんて、僕の物忘れのこと言えないな〜」とニヤニヤ。カチンと来た春日さんが「お父さんがメガネ外すからでしょ! お母さん体調悪いんだから静かにしてよ!」と言うと、「何だその言い方は!」と父親もムッとする。2人が言い争いをしていると、「私もう大丈夫だから。休んできたら?」と母親が、やんわりと父親を追いやる。すると父親は、素直に自室に去った。

春日さんは母親の後頭部を冷やし、2人で父親の愚痴を言い合った。しばらくして、母親は「トイレに行きたい」という。横たわっていたところから、お姉さん座りにさせ、次に膝立ちになって万歳をしてもらい、立っている春日さんが手を引き上げようとした瞬間、母親が春日さんの両足にしがみついて泣き出した。びっくりした春日さんは、しがみついた母親の手をさすりながら、

「わかる。わかるよ。情けなくて、やるせないんだよね」

と声をかけた。母親はただただ、声を押し殺して、何度もうなずきながら泣いていた。

「母は、自分がこんな体になってしまったこと、父に言いたいことがたくさんあるのに言う気力もないこと、孫ともっと遊びたい、これからも成長が見たいのに、それがかなわなそうなこと、こんな姿を娘に見せたくないのに、でも娘を頼らざるをえないこと……。いろいろな感情が溢れ出したんだと思いました」

春日さんは母親に気づかれないように、上を向いて泣いた。