壁にぶつかる62個の卵

この「逆境」に対応するために春樹が編みだした戦略は、天才的としかいいようのないものでした。

アンダーグラウンド
[著]村上春樹(講談社)

1997年、春樹は『アンダーグラウンド』を発表して、多くの人びとをおどろかせました。それまで、日本社会を正面から論じることを避けてきた作家が、地下鉄サリン事件の被害者のインタビュー集という、なまなましい現実にふれる著作を刊行したからです。

春樹自身は、この本を書く動機となった「私の知りたいこと」を「1995年3月20日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか」だと明言しています。

「この地下鉄サリン事件が投げかける後味の悪い黒い影は、東京のアンダーグラウンドの闇をとおして、私が自分で作り出した「やみくろ」という生き物(それはもちろん私の意識の目が見い出すものだ)とつながっているように感じられる。そのつながりも、私にとっては大きな意味をもつ、この本を書くにあたっての個人的なモチベーションだった。」

とも書いています。にもかかわらず、「結局のところ、村上の自注からは『アンダーグラウンド』という本を書こうと思った動機は、よく分らないと言わざるを得ないのである」(山下真史)といった声は絶えません。

私の見るところ、春樹が『アンダーグラウンド』にとりかかった動機は明確です。じぶんのトラウマを告白することなく、トラウマ本全盛の状況に対応するために、春樹は他人のトラウマを借りたのです。

『アンダーグラウンド』には、62人の被害者の体験談が、熟練の小説家ならではの筆で克明にしるされています。とくに、サリン中毒の症状を、読者に体感的につたえる力にはすさまじいものがあります。そのようにしてつみかさねられた62人の「トラウマ語り」は、地下鉄サリン事件という「この世をこえたすごいもの」を、鮮烈にうかびあがらせています。

春樹は、じぶんのトラウマを語ることなく、

「トラウマによって『この世をこえたすごいもの』を見せること」

に、どんなトラウマ本もおよばないスケールで成功したのです。『ねじまき鳥クロニクル』のなかの「間宮中尉によるノモンハン体験談」などを書くことで、こうした「聞き書き」をまとめるノウハウを、春樹は洗練させていったのでしょう。

『アンダーグラウンド』に対しては、ノンフィクション作家の佐野眞二などが、

「被害者を『善人』としてしか描いていない。ノンフィクション作品としては、取材対象への踏みこみが甘い。」

という批判をむけています。

しかし春樹は、この書物の続編として出版されたオウム信者へのインタビュー集『約束された場所で』のなかで、

「取材して肌身に感じたことがひとつあります。それは地下鉄サリン事件で人が受けた個々の被害の質というのは、その人が以前から自分の中に持っていたある種の個人的な被害のパターンと呼応したところがあるじゃないかということです。」

と語っています。じっさい、『アンダーグラウンド』の筆致は、事件の被害者にあくまで寄りそいながら、ひとりひとりの人間性の可能性と限界を非情なまでに浮きぼりにしています。それぞれが「サリンの匂い」をどのように感じたか、という点だけからも、被害者の「個性」はありありと読み手にわかります。非難がましいことはひとことも書かれていなくとも、取材対象の批評はしっかりおこなわれているのです。

ちなみに、この時期の春樹が「他人の声を身代わりにすること」に意識的だったというのは、小説からもうかがえます。

『アイロンのある風景』という短編(書かれたのは99年)には、春樹の作品としてはめずらしく関西弁(いうまでもなく、春樹のmother tongue)を話す人物が登場します。この関西弁の使い手――三宅さんという画家です――は、近所に住んでいる顔見知りの順子と、こんなやりとりをします。

「「じゃあ、いちばん最近はどんな絵を描いた?」

「『アイロンのある風景』、3日目に描き終えた。部屋の中にアイロンが置いてある。それだけの絵や」

「それがどうして説明するのがむずかしいの?」

「それが、実はアイロンではないからや」

順子は男の顔を見上げた。

「アイロンがアイロンじゃない、ということ?」

「そのとおり」

「つまり何かの身代わりなのね?」

「たぶんな」

「そしてそれは何かを身代わりにしてしか描けないことなのね?」

三宅さんは黙ってうなずいた。」

96年の『レキシントンの幽霊』にも、「ある種のものごとは、別のかたちをとってしか現われることができない」というフレーズが出てきます。「他人の声を身代わりにすること」の必要性を、90年代後半に春樹が感じていたことは、おそらくまちがいありません。

春樹の「僕」を、春樹その人の分身だと思って支持していた「ヨサク」さん(連載第1回参照)は、こうした試みについていけず、裏切られたとさわいだりしていたわけです。

春樹がエルサレム賞を受賞したときの「壁と卵」演説にならうなら、トラウマ告白本の著者は、みずから壁にからだをぶつけ、「私はここにいる!」と主張している人びとです。これに対し『アンダーグラウンド』は、壁にぶつかって割れた62個の卵を、著者が冷徹に観察したレポートといえます。