90年代における「純文学」小説の失墜
90年代なかばごろに、「純文学」小説の特権的な地位がうしなわれたことは、この連載でくりかえしのべました。
時期をおなじくして、クラシック音楽や前衛美術の権威も、大きく低下しました。
「芸術」全般にわたってこうした変化が生じたのは、
「途上国の原料を先進国に運んで加工し、世界じゅうに売る」
という、19世紀以来のシステムが限界に達したからです。このシステムは、1973年のオイル・ショックによって決定的な打撃を受け、東西冷戦が終結した90年代には破綻を隠せなくなりました。
「芸術」と呼ばれてきたものは、この「寿命の尽きたシステム」に対応したものでした。工場で製品をつくったり、そうしたものづくりがスムーズに運ぶようサービスをしたりする、先進国の労働者――そんな彼らに、「この世をこえたすごいもの」を見せる装置が、近代の「芸術」だったのです。
いまでは工業生産は、おもに先進国以外のところでおこなわれています。「純文学」をはじめとする「芸術」が、機能しなくなるのも当然です。
もっとも、だからといって、「この世をこえたすごいものに触れたい」という欲求が消えたわけではありません。そこで、既存の「芸術」にかわって、べつの分野でそれをみたそうとするうごきがあらわれます。そのようにして生まれたのが、『新世紀エヴァンゲリオン』や平成版『ガメラ』だったわけです(『エヴァ』のテレビ放映がはじまったのも、平成版『ガメラ』の第一作が公開されたのも、1995年です)。
村上春樹は「純文学」作家をはかる尺度ではつかまえきれない作家です。「この世をこえたすごいもの」を見せる装置とは異質の、「体験型アミューズメント」として小説を書いていることは、この連載の3回目(>>記事はこちら)にのべました。
このような作家であるせいで、芥川賞をのがすなど、春樹はキャリア形成のうえで不利も受けました。そのかわり90年代には、「純文学」の没落の影響をまぬがれ、かえって作家としての存在感を増すことに成功しました。
このように書くと、90年代なかば以降、いっきょに「春樹の時代」が到来したような気がしてきます。しかし、ここまでのべてきたのとはべつの意味で、世紀の変わり目のころの春樹は危機をむかえていました。