春樹は正しかったのか

バブルの余慶に、私がすこしもあずかれなかったことは、これまでにも何度か書きました。しかし、バブル時代よりさらに私がこまっていたのは、じつは90年代後半でした。告白すべきトラウマのないじぶんが、どうやって文学や文化にかかわればいいのか、見当がつかなかったからです(当時は、批評や研究の世界にも、「苦しめられている人びと」の側に当事者として立つことができなければ、発言しにくい空気がありました)。

2000年代なかばには、物ごころがついたころにはバブルが終わっていた世代が大人になり、やり場のない「自己重要感」に根ざした文化も下火になりました。おかげで私も、文学研究業界のかたすみに、何とか居場所を見つけることができました。

こまっていたころの私は、春樹のように、起死回生の打開策を編みだすことなど思いもよりませんでした。この原稿を書くにあたり、春樹のすごさをあらためて実感しています。

ただし、62人のサリン事件の被害者は、あからさまに非難されていないぶん、春樹の筆によって批評されている自覚をもたないはずです。知らないうちに、人間としての限界をあばかれたうえ、迫真の地獄絵図のピースのひとつにされてしまう――すくなくとも私は、そんな目にはあまり遭いたいと思いません。

『アンダーグラウンド』は、春樹の異常な才能とともに、もの書きとしての「業」のようなものを感じさせる著作です。

私のおしえ子の彼氏は、ずっと爆発を描きつづけ、おそらくたいした名前はのこさずに死ぬことでしょう。そのかわり、彼が手がけた爆発のせいで、傷つく人間はだれもいないはずです。

春樹と、私のおしえ子の彼氏と、「この世をこえたすごいもの」を見せようとする人間としてどちらがまっとうか――この問いにこたえるのは、「壁と卵」のどちらにつくか結論をだすより、はるかにむずかしいと私は思います。