「トラウマ告白本」全盛だった90年代

連載の5回目(>>記事はこちら)に触れたことですが、90年代後半からゼロ年代初頭にかけて、

「作者自身のトラウマ的体験を告白した小説」

が大量に書かれました(代表的な書き手としては、田口ランディや柳美里がいます)。

「トラウマを背負いこんだ主人公が、そのために精神に異常をきたし、犯罪者となる」

という展開をたどるミステリー(「サイコ・スリラー」と呼ばれています)も、このころ盛況でした。

文学書だけでなく、有名人が出すエッセイも、不幸な過去を告白するというスタイルが流行りました。飯島愛の『プラトニック・セックス』は、なかでも反響が大きかった作品です。

こうした「トラウマ告白本」が、この時代に好まれた理由は、第6回目(>>記事はこちら)に検討した「日本人の過剰な自己重要感」とかかわりがあります。

80年代の日本人には、じぶんの価値を過大に見つもる傾向がひろまっていました。バブルの時代には、平凡な20歳の女性が、誕生日に50万円の指輪をプレゼントされるようなことがしばしばあったのです。そうした状況のせいで「勘ちがい」をする人が、男にも女にもたくさんあらわれました。

バブルが崩壊すると、そうした「実態のない自己重要感」がみたされることはなくなります。だからといって、肥大した自己評価は、なかなかもとにもどりません。結果として、

「じぶんはもっと特別扱いされていいはずだ。いまの世の中まちがっている!」

――そんなふうに叫びたい衝動を、多くの日本人がかかえることになりました。

けれども、「特別扱いされたい」という「身もふたもない本音」を直視できる人間は少数です。そこで、「かわいそうな人物」の告白をひっぱりだし、

「こういう気の毒な人が生まれるのだから、いまの世のなかはおかしい!」

というぐあいに、不満を正当化する態度がひろまったのです。

「純文学」小説が特権的な地位を誇っていた時代には、「この世をこえたすごいもの」を読者に見せる力のみなもとは、作者の「霊感」だと思われていました。「トラウマ告白本」では、主人公のトラウマの爆発が、しばしば『この世をこえたすごいもの』を呼びこみます(たとえば、田口ランディの『アンテナ』や村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』など)。「霊感」ではなく「トラウマ」が「この世をこえたすごいもの=芸術」を生む――そうしたイメージが、世紀の変わり目の日本にはいきわたっていたのです。

さきに触れた『新世紀エヴァンゲリオン』にも、「トラウマ告白本」とかさなる部分があります。この作品の主要登場人物は、そろって深刻な心の傷をかかえています。そうした「傷」のせいで、作中人物が戦闘メカを暴走させ、それが「この世をこえたすごいもの」の立ちあがる場面になったりします。

春樹は、「私小説」の伝統に異をとなえ、「物語」の力をずっと主張しています。この世代の作家にはめずらしく、じぶんの「心の病」についても多くを語りません(このことも、連載の5回目にのべました)。

「トラウマ告白本」を書くことは、春樹のポリシーにあきらかに反しています。そうした類いの話ばかり売れる状況を、春樹がこのましく思っていたはずはありません。