花巻東野球部を大改革した佐々木洋監督
「特待にしてもらえるなら、いいか」
藤原拓朗が花巻東に進学を決めたのは、そんな理由だった。故郷である岩手県沿岸部、釡石市は、当時の監督の出身地でもある。その縁に加え、地元の先輩が進学していたことも心強かった。中学では左腕エースとして活躍したが、目立つ実績は挙げていない。
甲子園に出たい。プロ野球選手になりたい。そんな望みはなかった。2001年(平成13)年、花巻東の野球部は、そんなことを想像させる状態ではなかった。最後の甲子園出場は1990(平成2)年の夏。その後は一関商工(現・一関学院)や専大北上、急激に力をつけた盛岡大付などに押され、県大会序盤で敗れるなど、低迷していたのだ。
「当時の花巻東に甲子園を狙えるイメージはなかったですね。私自身、とりあえず高校でも野球をやりたいな、くらいの気持ち。3年生にいい投手がいたので『ハマればもしかしたら』とは感じましたけど」
そんな藤原の高校野球生活が一変したのは1年生の夏。夏の大会で花巻東は1回戦負けを喫し、監督が交代したのだ。新監督となったのは佐々木洋。ご存じの通り、菊池雄星や大谷翔平を育て、現在も花巻東の監督を務める、あの佐々木である。
当時、佐々木は女子ソフトボール部の指導をしていた社会科の教諭だった。佐々木は花巻東に赴任後、バドミントン部の顧問を経て一度、野球部のコーチとなったが、女子ソフトボール部の立ち上げに伴い、その監督を命じられていた。
「コーチ時代を知っている先輩たちが『あの人ヤバいヤバい』と言っていて、厳しくて怖いと聞かされていました。実際にそれは間違ってはいませんでしたね。今とはイメージが違うと思いますよ。理不尽な暴力などはなかったですけど、取り組みの一つひとつに厳しいというか」
数字を意識した目標設定
佐々木は1975(昭和50)年、岩手県北上市に生まれた。プロ野球選手に憧れて野球を始め、高校は地元の公立進学校、黒沢尻北に進み、大学は国士舘大でプレー。同期には古城茂幸(元・巨人ほか)がいる。ただ、佐々木自身は選手としては芽が出ず、捕手から外野手に転向後、2年の秋季リーグが終わる頃には、選手として実質的に「引退」。寮も出ることになった。選手失格の烙印を押された佐々木には時間がぽっかりできた。すると自問自答が始まる。
「オレはこのままでいいのか?」
プロ野球選手が夢だった。だが、それは叶わなかった。ならば野球の指導者に。そんな将来も視野に入れ教職課程は履修していた。そして、大学の先輩・水谷哲也が監督を務める横浜隼人(神奈川)でコーチ修業を始める。卒業後もそのまま横浜隼人でコーチを続けた後、1999(平成11)年、縁あって花巻東に赴任した。
「練習はガラッと変わりました。一番は目標設定。『目標を立てて、それに向かって取り組んでいくんだ』と説明され、野球ノートに来年の目標や大会まであと何日でその間に何をするかなど細かく全部書くように言われました。監督との交換日記みたいな感じでしたね」