街のあちこちにあるギャンブル施設

国ごとの調査方法の違いを考慮したとしても、ビッグイシュー基金が「日本は疑似カジノ化している」と断言していることは大げさではなさそうだ。

限られたエリアにギャンブルの機会が凝縮する海外のカジノとは違って、日本国内では人の集まる場所には、必ずといっていいほどギャンブル施設が点在する。これはパチンコだけの問題ではない。

最近は減ってきたものの、かつては街のあちこちに麻雀荘があった。そこでは、仲間内だけのゲームにとどまらず、居合わせた者同士が現金を賭けて卓を囲む「フリー麻雀」が当たり前のように行われていた。

昭和の人気作家、阿佐田哲也は、小説の登場人物にこう言わせた。

「お前もそうだろうが、俺も小さい時から博打場で育った。博打ってものア、大きな顔で人前でやるもんじゃねえって教わってきた。俺たちはいつもコソコソ、裏街道を歩いてきたもんだ。ところが、有難え世の中になったもんじゃねえか。戦争に負けたおかげで、大通りに堂々と、博打宿が出せるんだとよ。俺ァ夢みたいだぜ」(『麻雀放浪記㈠青春編』角川文庫)

日本だけの異様な光景

今でも、都会や地方を問わず、学校の近くだろうが、病院の近くだろうが、大通りに堂々とギャンブル施設がある。阿佐田いわく、「大きな顔で人前でやるものではないと教わってきた」にもかかわらず――。そんな国は、世界を探しても、おそらく日本ぐらいのものだろう。

だからといって、パチンコ・パチスロ店、競馬や競輪などの公営ギャンブル、麻雀荘、さらに宝くじをやり玉に挙げても意味はない。法律の範囲で、ささやかなスリルを良識的に楽しんでいる愛好者もいて、ギャンブルにおける一喜一憂が日常生活のアクセントになっていることも忘れてはいけない。

「依存の元凶」として、パチンコやパチスロばかりを頭ごなしに糾弾しても解決につながらないし、そもそも法的には「3店方式による遊戯」を標榜している以上、現状では強制的に規制をかけたり、閉店させたりすることなどはできるわけがない。

さらに、機器メーカー、パチンコ・パチスロの店舗、景品交換所などで働く人には、自分の生活を守る権利がある。わずかなお小遣いで「遊戯」を楽しんでいる人だっている。問題は、日常の風景となっているギャンブル(遊戯)施設ではなく、依存を生み出す構造のほうだ。