信長の人間的温かさ
ある年の春、信長は出陣した。尾張国を通過中、畑の脇を通りかかると、ポカポカ暖かいので、一人の農夫がいい気持ちで草の上で寝ていた。これを見た信長の部下が怒った。
「あの農夫はとんでもない奴です。ご領主様が、この国に住む人間のために戦に出掛けるというのに、見送りもせず大の字に寝て、高鼾をかくとは許せません。血祭に斬ってしまいましょう」
と息巻いた。ところが、信長は笑ってこう応えた。
「止めろ。俺の国では農民がいつもああいうように、高鼾で寝られるようにしたいのだ。それが俺の願いだ」
この言葉は、戦争好きといわれる信長が、実は日本に一日も早く平和をもたらしたい、という志を持っていたことを示すものだ。かれは、同時代人のニーズをよく知っていた。特に民衆が、
「一日も早く戦国を終わらせて、生命や財産に安心感が持てるような世の中にしてほしい」
と願っていることを知っていた。かれが、集団戦法や科学兵器を導入して、戦争終結のスピードアップをしたのはそのためだ。
「この金で、この男に家を建ててやれ」
信長が、岐阜城を出て、京都に向かったことがあった。美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)との境にある山中というところを通過したとき、一人の物乞いがいた。まるでサルのような姿になって、信長に手を差し出し、何かくれといった。信長はその男に聞いた。
「なぜ、こんな山の中でおまえは物乞いなどしているのだ?」
男は応えた。
「昔、この山中を通る落人の女性の着物を剝ぎ、持っていた金品を全部奪ったことがあります。その後、その女性がどうしたのか気になって、毎日苦しんでいるうちに、こんなサルのような姿になってしまいました。おそらく、天の罰が当たったのでしょう。ですから、里へ降りずに、その女性への罪を償うために、こうして物乞いをしているのです」
この時、信長はただそうかと頷いただけで、通り過ぎた。が、京都からの帰り道、またサルのような姿をした物乞いに遭ったので、信長は付近の村人を全部集めた。持っていた金を出してこういった。
「この金で、この男に家を建ててやってくれ。そして残りで畑を切り拓き、穀物が実ったらその一部をこの男に与えてやってほしい。残りは、全部皆で分けてくれ。この男は殊勝な気持ちの持ち主なので、皆が優しくしてやれば、やがてはサルからもう一度人間に戻ることができるだろう」