意外に冷たい秀吉
巧妙なオダテ型リーダーであり、人情家であった秀吉に、意外と冷たい面があった。
かれの出身地は尾張の中村だ。天下人になった時、出身地である中村の住民たちが、秀吉のところに、大根と牛蒡を持って来た。大根と牛蒡は中村の名産品である。秀吉は喜んだ。
「これからも毎年、年頭の祝い物として大根と牛蒡を届けてくれ。その代わり、中村に対する税は免除しよう」
といった。農民たちは喜んだ。その後秀吉が関白太政大臣になった時、農民たちは悩んだ。
「人民として最高の位に就いた秀吉様に、今度の正月の祝い物が、相変らず大根と牛蒡でいいのか?」
ということである。相談した村人たちは、結局、「大根と牛蒡を止めて、今年からは越前の綿をお持ちすることにしよう」と決めた。越前の綿は当時大変な貴重品だったからである。
早速、越前に走って高い綿を買い、秀吉のところに届けた。すると、秀吉は顔色を変えた。怒ってこういった。
「馬鹿者、なぜ越前の高い綿など俺のところに持って来るのだ。いまの俺は、日本中欲しい物は何でも手に入る。俺が欲しかったのは、土だらけの大根と牛蒡だ。生まれ故郷である中村の素朴なおまえたちの気持ちだ。それを、俺が少し偉くなったからといって、変な勘繰りをし、こんな品物を持って来る。それだけの余裕があるのなら、今年からは他の村と同じように税を課する。いいな?」
その時の秀吉の顔はまさに鬼のようで、中村の農民たちは震えあがった。そしてつくづく自分たちの心得違いを悟った。が、秀吉は許さなかった。その後、生まれ故郷である中村も例外としないで、普通の税を掛け続けた。
秀吉が批判した信長の欠点
信長が死んだ後、秀吉は信長についてこういっていたことを振り返りたい。
「信長様は、勇将ではあったが良将ではない。いったん他人を憎むと、その恨みは最後まで続いた。その人間だけでなく、家族も根絶やしにしなければ気が済まなかった。信長様は人から恐れられはしたが、愛されることはなかった。明智光秀が反乱を起こしたのもそのためだ」
秀吉は、信長に発見されたからこそ天下人への道を辿れた人物だ。信長を絶対の主人と考え、信長の履く草履を胸に抱いて温めるほどの忠義ぶりを尽くした。あれだけ側にいて、信長の全人格を知り尽くしているはずなのに、こういう批判を加えている。ということは、信長の温かい面が、やはり秀吉にも完全には理解されていなかったことを物語る。ということは、逆に秀吉の人間洞察力にも限界があったということである。