「これからの会社はどうあるべきか?」もこれで説明できる

ウィリアムソンは、「初めに市場があった」という前提から、市場の失敗によって、取引コストが上がり、組織が成立すると説明しているわけだが、いまの世の中を見渡すと、まったく同じ概念を使って、逆方向での面白い議論ができると思う。

本書が描かれた時代と比べて情報技術がこれだけ発達すると、さまざまな取引コストが激減する。1980年代以降、市場という取引メカニズムのパワーが大きくなり、組織が後退していった理由も、ウィリアムソンの取引コストの理論で十分説明できる。

この20年ほど、従来は組織内部で行われていた取引がどんどん市場に移されるという現象が進行している。業務のアウトソーシングや、正規社員から契約社員への移行がその例だ。高コストを払って組織の中に抱えておかなくても、市場メカニズムを縦横に使えばビジネスがより効率的にできる。このまま市場の取引コストが下がり続けたら、組織の存在理由はどこに残るのか。これは今日的な問いだ。

ウィリアムソンの理論は、時代を超えてこのような深遠な問いかけに対する答えを導くよりどころになる。アウトソーシング、契約社員、オープンイノベーションなどなど、組織の領分をどんどん市場に「明け渡して」いくだけでは、組織の自殺である。突き詰めれば、もう会社なんかいらない、そんなもの解散しろ、という話になる。ようするに、これだけ多くの点で市場の取引コストが下がっているのだから、これからの会社(組織)は市場ではできないことをやるしかない。ここにこれからの会社の進むべき方向性がある、というのが僕の意見だ。

ウィリアムソンがすごいのは、この辺のことをちゃんと考えているところである。彼は理論モデルの中に「雰囲気」という概念を入れている。

市場における取引は、「技術的分離可能性」が前提になっている。たとえば、労働者一人に割り当てられる仕事をほかの労働者の仕事と完全に分離できれば、アウトソーシングは理にかなっている。発生する仕事をこなしてくれる労働者を、必要な量だけスポット契約で雇えばいいという話である。しかし、ウィリアムソンは、仮に仕事を技術的に分離できたとしても、人間の「態度」に関しては分離不可能なものがあるという。人間の態度までも分離可能なものとして扱うと、部分最適となって、結果的に全体のアウトプットは下がってしまう。

たとえば、自発的な献血がいいのか、売血がいいのかという議論がある。ウィリアムソンの見解によれば、市場メカニズムを使う「売血」は、献血システムを衰弱させる。なぜなら、血液市場をつくると人間が本理的にもっている利他主義という「態度」が減じられてしまうからである。値段のつかないものを提供する自分たちは不可欠の存在だと思えるからこそ、利他的な行動が触発される。その結果として、自発的献血がせっかく起きているのに、血液を商品化すると取引の性質が変わってしまうというわけである。

だったら血液の価格を上げたら血が集まるかというとそれはうまくいかない。つまり無料で行う献血と利他主義は分離不可分であり、売血は利他主義の実践による満足をもたらさないので、結果的に血液を提供する人が減ってしまう。こういう「満足を呼び起こすような交換関係」といった「雰囲気」は、市場メカニズムでは十分に扱えない。「1リットルいくらで買います」といった具合に血液を必要なときに必要なだけ市場から吸い上げるシステムというのは理にかなっていないのである。

こうした「雰囲気」にまつわる議論は、本書の中では付随的にしかなされていない。しかし、ここでウィリアムソンがぼんやりとモデルの中に入れている「雰囲気」こそが、僕はこれからの組織の拠り所ではないかと考えている。