組織は「濃く」なければ存在する意味がない

僕がこれからじっくりと考えてみたいのは、「組織の濃さ」とでも言うべき概念だ。組織の特徴を記述する伝統的な変数として、例えば規模(大きさ)、垂直分業の程度(高さ)、水平分業の程度(広さ)、公式化の程度(堅さ)などなど、いろいろとあるのだが、「濃さ」はこれまで見過ごされてきたのではないだろうか。「組織の濃さ」の概念はこれから詰めなければならないので、ここでは直感的な言い方になるが、「濃い組織でなければ、組織として存在する意味がない」というのが僕の仮説だ。なぜ市場がパワーを持つこの時代に「会社」をやっているのか。この問いに明確に答えられる組織でなければ市場メカニズムに浸食されて、会社としての存在理由を失ってしまう。

「濃さ」というのは、金では買えないもの、純便益のための手段としては片付けられないものの総体を意味している。個人の中の成長とか、信頼とか、やる気とか、達成感とか、取り出してきてその部分だけ売ったり買ったりできない分離不可能なもの蓄積で組織は「濃く」なる。

たとえば、労働市場。情報技術の発達で労働市場の効率が上がり、雇用が流動的になったといっても、市場メカニズムで相互に理解できるようなスペックだけで人を集めると、ロクなことにはならない。それは雇用する側の企業も雇用される個人も経験値として知っているはずだ。ヒトを市場取引に任せてしまえば、ある面では取引コストが高くなる。

逆にいうと、そうしたことをよくわかっている組織は、やる気があって、本当にその仕事が好きな人間を引き寄せる「雰囲気」をつくっている。これからの経営者は、労働力も開発も生産も営業も企画も、その気になればすべて市場で「効率的」に調達できる時代に、なぜ自分の会社は組織として存在し続けるべきなのかについて、誰もが納得する答えを持っていなければならない。

僕の関心に引きつけて言うと、戦略のストーリーをつくるとか、共有するとか、実行する、こうした仕事は市場取引では手に入れられないものだ。「勝てる戦略ストーリーをつくってくれ」とカネを出せば市場で買ってこられるものでもない。当然のことながら、これでは取引コストが高すぎる。いくらコンサルタントを雇っても、その会社の支柱となる戦略ストーリーのアウトソーシングはできない。そんなことができれば、経営も経営者は必要なくなる。全部その場限りのコンサルタントがやればいいだけの話だ。

市場でないものが組織、組織でないものが市場。何であるかということを考えるということは、それが何でないかを考えることに等しい。連載第8、9回の『最終戦争論』(>>記事はこちら)でいえば、石原莞爾は持久戦争という概念をもってくることで、自分が主張する決戦戦争の内容をより鮮明に説明することに成功している。

しかし、石原莞爾の場合は2つのタイプの戦争を対比させるだけにとどまっている。ウィリアムソンがすごいのは、市場と組織をつなぐ補助線として、取引コストという概念をもってきたことだ。この概念一発で「会社はどうやってできたか」から「これからの会社はどうあるべきか」「優れた組織とは何か」といった大きな問いにズバッと明快な答えが導き出される。さすがにノーベル賞をとっただけのことはある。

市場と企業組織
[著]オリヴァー・イートン・ウィリアムソン[翻訳]浅沼 万里,岩崎 晃(日本評論社)

今回はウィリアムソンの『市場と企業組織』を題材に、論理を勉強することの面白さについて話をした。自発的に読書をし、勉強を続けるためには、とにもかくにも論理(化)の面白さを頭と体で知ることが大切だ。本を読むときには、いつもその背後にある論理を少しだけでも考えてみる。これは読み方としてわりと時間がかかる。しかし、そのうちに論理の面白さを感じるようになる。論理の面白さにいくつかのパターンがあることが見えてくる。すると、自分が面白がるツボも自覚できる。

「ガツンとくる」「ハッとする」「ズバッとくる」というのは僕なりの論理の面白さの分類だが、読者の方々も自分にとっての面白さをパターン化して、どこに自分のツボがあるのかを考えてみることをお勧めする。多くの人があからさまに面白がることでなくても、読書や勉強に関して、自分で妙に面白いと思ったことが、誰にも1つや2つはあるはずだ。なぜそのことを面白がれるようになったのか。まずはその「論理」を考えてみることだ。

面白さのツボがつかめればしめたものだ。面白い論理との出会いを求めて勉強が進むようになる。「これ、面白そうだな」と自分の感覚に引っかかった映画を観るように、読書と向き合える。もちろん全部が全部面白い論理を提供してくれるわけではない。映画と同じで「ハズレ」もある。しかし、だからといって一度論理の面白ささえわかってしまえば、勉強がイヤになることはない。習慣として持続する。

繰り返し言う。知識の質は論理にある。知識が論理化されていなければ、勉強すればするほど具体的な断片を次から次へと横滑りするだけで、知識が血や骨にならない。逆に、論理化されていれば、ことさらに新しい知識を外から取り入れなくても、自分の中にある知識が知識を生むという好循環が起きる。

読書や勉強に限らず、どんな分野のどんな仕事でも、優秀な人というのは「面白がる才能」の持ち主だ。面白がるのは簡単ではない。人間の能力の本質ど真ん中といってもよい。時間をかけてでもそうした才能を開発できるかどうか、ここに本質的な分かれ目がある。読書というのはその最たるものだ。

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