「山上が読んだ記事」を書いた責任について
山上徹也と私は近年、「安倍晋三」という同じ対象を追っていた。
私は安倍の首相在任中から継続して統一教会との間にあった不適切な相関関係を示し社会に問いたいと思ってきた。
私は調査報道によって安倍の疑惑を追い、山上は銃撃のターゲットとして安倍の動向を追った。
では山上徹也が安倍を追う目的は何だったのか。
山上被告のメッセージ内容から考えて、彼が安倍晋三と統一教会との関係について知ったのは私の記事によるということはほぼ明白だ。
記事を書いた側の責任として、責任を感じる。だが、感じるだけではなくその責任を取るために、私はあくまで事実を提示し続けなければならない。
責任を取るということは、安倍晋三と統一教会との間に関係がなかった、などと前言を翻すことではない。私にできるのは、あくまで事実を積み重ねていくだけだ。
犯行を支持し、正当化するためではない
もちろん、山上徹也の取った手段は明確に間違いだった。
それを指摘した上で、山上徹也被告がなぜ安倍をターゲットとしたのか、事件の動機面についてはきちんとした検証が必要だ。
それは決して彼の犯行を支持し、正当化するためではない。安倍晋三という政治家が抱えていた「問題」について、合法的にペンの力で追及すべきと思っているだけだ。
私の仕事は調査・取材によって得た事実を提示し、読者に判断を仰ぐことだ。山上徹也被告の裁判に加わる裁判員にも、やはり同じように事実を提示したい。
彼が安倍晋三と統一教会の間に関係があると思って、安倍晋三をターゲットにしたこと。
それが勝手な思い込みや勘違いではなく、確度が限りなく高い事実であると彼のなかで確信があったこと。
その情報を的確に提供した上で、司法の判断がなされるべきであると思う。
事件によって日本中が痛感したはずだ。メディアの監視が行き届かないところで政治家と問題教団との癒着が横行し、規制されるべき悪質な団体が野放しにされ多くの被害者を生み出しつづけていたことを。
臆することなく、報じるべきことを報じつづけるのみ。それこそが真の意味でのジャーナリズムの復権につながると感じている。