「体育=スポーツ」という思い込み

そもそも体育とは、文字通り「からだを育てること」である。すぐに風邪を引いたり、重い病気にならない健康的なからだを育むのがその主旨で、成長期の子供ならば骨や筋肉や内臓などの発育を促すことがそれにあたる。少し走っても息切れせず、それなりに重い荷物も担げる。椅子に座り続けても腰や肩が痛まない。鼻歌交じりで家事をこなせるし、そこそこの距離なら赤ちゃんを抱きながら歩ける。つまり、日常生活を楽しく明るく送るうえで不可欠な体力を向上させるのが、体育である。

この健やかなからだを育てる体育では、おもにスポーツが行われている。スポーツを通じて結果的にからだが鍛えられ、その使い方もうまくなって体力が向上する。それを見越してスポーツが教材になっているわけである。

跳び箱やマット運動を通じてからだの柔軟性や操作性を高める。陸上競技だと短距離種目なら瞬発的な筋力を、長距離種目ならば心肺機能が向上する。ボール運動は、ソフトボールや野球などの「ベースボール型」、バレーボールやテニスなどの「ネット型」、バスケットボールやサッカーなどの「ゴール型」に分類され、それぞれの競技特性を踏まえながらからだの機能を向上させるために行う。

だからスポーツはあくまでも手段に過ぎない。健やかなからだを育てるためのツールだといっていい。もしスポーツ以外にからだを育てるために有効な手立てがあれば、それを採用したってかまわない。たとえば山に分け入っての昆虫採集、グラウンド横に小屋を立てる、校舎の大掃除など、全身を使って行う運動らしきものならば体育の教材として十分に成立する。健やかなからだを育てるという学校体育の目的に立ち返れば、つまるところそうなる。

私たちは知らず知らずのうちに「体育=スポーツ」だと解釈しがちだが、実はそうではない。両者は似て非なるものであり、そこには手段と目的という明確な違いがある。

スポーツは「気晴らし」であるべき

ではなぜスポーツが体育の教材になっているのか。からだを育てるためにはスポーツがふさわしい。そう無意識的に私たちが考えているのはなぜか。

スポーツは、「気晴らし」が語源であることからも、本来的には楽しむものとしてある。音楽や美術などと同様に文化的な営みであるといっていい(それをなりわいとするプロスポーツはまた別の側面がある)。からだ全体を使って勝敗を競い合う文化としてのスポーツの目的は楽しむこと、つまり爽快さを味わうことにある。楽しみながらからだを育てることができるという点で、スポーツが選ばれている。