「できなさ」ばかりが強調され苦手意識が生まれる

さらにそこには、技術面に加えて日常生活における人間関係も影響してくる。共に練習を行ってきた勝手知ったるチームメートならパスはつながりやすいが、初対面の人とはそう簡単にはいかない。熟達度やプレーのクセ、また意欲の程度や生来の性格など、互いに相手を知らなければパスはつながらないからだ。

つまりグラウンドやコート内外での関係性もパスという技能の習得には関わってくる。とくに自我が形成途上で、他者と適切な関係を築くことがままならない年代なら、この影響は計り知れない。

「ボールを持たないときの動き」を含むパスプレーは、実に多様な要因が絡み合った結果として成立する。技術的要素のみならず他者との密な連携のうえに構築される技能であり、その習得にはそれ相応の時間がかかる、極めて高度なプレーなのである。

私はこの到達目標の高さが、「体育ギライ」を生む要因ではないかと考えている。

どれだけ挑戦してもできない経験が積み重なり、がんばってもできない自分にはセンスがないと思い込む。「できなさ」ばかりが強調されるなかで苦手意識が生まれ、だんだん楽しめなくなる。そのうち運動習得に不可欠な意欲が減退し、やがてスポーツおよび体育のみならず運動そのものが嫌いになる。

泳ぎを覚えたばかりなのに荒波が立つ海に放り込まれたかのような、そんな過酷さを、当の子供たちは感じているのではないだろうか。

「できなかったけど楽しかった」経験こそが重要

この悪循環を断ち切るには、いうまでもなく到達目標を下げることだ。

学習指導要領にある「生涯にわたって運動に親しむ資質と能力の基礎」および「楽しく明るい生活を営む態度」を育てる目標を達成するには、「体育は楽しかった」と学校生活を終えることで果たされる。多少のできなさを抱えつつも総じて楽しい経験だったと記憶に残れば、大人になってふとしたときにちょっと運動でもしてみるかと思えるはずだ。

たとえ「ボールを持たないときの動き」ができなくとも、思うようにパスがつながらなくても、取り組み自体が楽しければそれでいい。理解という「結果」が問われる国語や数学などの座学とは違い、体育は、できないことをどうにかしてできるようにと意欲的に取り組む「プロセス」そのものに意味がある。

体育館でバスケットボールの練習をする子供たち
写真=iStock.com/xavierarnau
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ああでもない、こうでもないという身体的な試行錯誤を通じて運動感覚は錬磨され、からだの使い方がうまくなって体力がつく。技能が身に付いたかどうかではなく、その習得に向けて悪戦苦闘することそのものが成果となる。

このプロセスを楽しめるレベルにまで到達目標を下げる。これが学校体育を見直すときの大切な視点だ。