嫌いな人にも救いの手を差し伸べるべき
では、理性的な愛とは、具体的にどのような愛のことなのでしょうか。カントは以下のように説明します。
「他の人々に対して、その人々を好むと好まざるとにかかわらず、自分たちの能力に応じて親切を施すことは義務である」(Ak VI 402.)
もし感情のみによって動くとすると、自分の嫌いな人や、関心のない人が助けを必要としていても、(感情に変化が生じない限り)体は動かないことになります。ここに感情としての愛の限界があるのです。そこで体を動かすには、理性を用いて自らを駆り立てる必要があります。
私たちは主観的な理由によってではなく、つまり、自分が相手を好きであるかどうかに関わらず、関心があるかどうかに関わらず、もちろん、自分に見返りがあるかどうかにも関わらず、困っている人に救いの手を差し伸べるべきなのであり、それをカントは「愛の義務」と呼んでいるのです。
友人の欠点を指摘するのも「愛の義務」
カントは「愛の義務」について、もうひとつわかりやすい例を挙げているのでここに紹介しておきます。
「道徳的に考えるならば、ある友人が他の友人の欠点を当人に気づかせるということは確かに義務である。というのは、そうすることが、必ずや当人のためになることであり、それゆえ愛の義務だからである」(Ak VI 402.)
好き好んで相手の欠点を指摘する人などあまりいないでしょう。普通はそんなことをしたいとは思いません。しかし、自身の感情を横に置いて、理性的に考えてみれば、相手の改善すべき点についてわかっているのに、それを伝えないというのは、筋が通らないということになるでしょう。そのためカントは、そこで友人に働きかけるのは倫理的義務であると言うのです。
ただ、このような言明にたとえ納得できたとしても、同時に、ここに難しさがあることもまた認めざるをえないのではないでしょうか。