放送は、NHKが受信料(新聞と同じサブスク=定期購読モデル)という確固たる財源を担保され、民放はスポンサーの広告料という強力な基盤に支えられている。このため、視聴者は、テレビやラジオさえ持っていれば、料金を支払う痛痒感をもたずに大半の番組を楽しむことができる。

ネットは多くの場合、広告効果を細かくチェックできる利点を生かした広告が収入の源泉で、その規模は、今やマスメディアの広告収入をはるかに凌駕するまでになった。利用者は無償でさまざまな情報やコンテンツを得られるので、ますます利用が増えていく。もっとも、ネット企業に、知らぬ間にありとあらゆる個人情報を吸い上げられるという「対価」を払っているのだが……。

こうしてみると、週刊誌のビジネスモデルが、いかに脆弱ぜいじゃくであるかがわかる。そして、売れなくなれば、値上げして収益を確保しようとする。すると部数は減る→また値上げする→さらに部数が減るという、負のスパイラルに入ってしまったのである。

新聞・テレビにはない「週刊誌報道」の強み

ただ、これは、印刷メディアとして週刊誌を捉えた場合の話だ。雑誌ジャーナリズムの真骨頂は、新聞や放送が報じにくいニュースやスキャンダルを掘り起こすところにある。

うわさの段階から取材を始めて生煮えでも世に問う手法は、新聞ジャーナリズムや放送ジャーナリズムとは、そもそもコンセプトから異なっている。

屋外で一眼レフカメラを構えてシャッターを切るプロのカメラマン
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連載の読み物が充実し紳士的といわれた朝日新聞社系の「週刊朝日」も、関西テレビの「発掘!あるある大事典Ⅱ」の納豆ダイエットのデータ捏造ねつぞうをスクープしたり、毎日新聞の誤ったレンブラント報道を明るみに出して、大いに紙価を高めた。

出版社系週刊誌の報道は、さらに強烈だ。直近では、ジャニーズ喜田川氏の性加害問題を、新聞や放送が沈黙を続ける中で敢然と追及してきた「週刊文春」の気骨を知らない者はいないだろう。

「週刊現代」や「週刊ポスト」も、さまざまな批判をものともせず、政治家や大物芸能人たちを震え上がらせた。次々に起こされた訴訟も「それこそ勲章」と胸を張った。

東京新聞の「時代を読む」コーナーに、山田健太専修大教授が寄せた「ジャーナリズムのやんちゃ性」と題する小論(6月18日付)は興味深い。社会全体を覆うメディア批判について「報道は絶対に間違いが許されないとの思い込みがある。例えば、週刊誌の憶測記事はもってのほかとされるが、果たしてそうか。メディアが均質で同様の『確からしさ』を身にまとっていては、私たちの生活は味気ないものになるだろう。雑多な情報があってこそ豊かな情報空間が生まれる」と喝破している。