そんな嘆きにお構いなく、商店街の店はどんどんシャッターが閉まっていった。もちろん、堀田さんの実家も他人事ではなかった。

「私も商売人の子なので、小さい頃からずっと祖父や親にお金のことを聞かされてきました。景気がだんだん厳しくなってきたと言われることが増えて、子どもながらに危機感はありましたね」

店は何とか存続し、後年、堀田さんは家業を継ぐことになるが、この時の状況が大きなきっかけとなり、店を継ぐことをやめてサラリーマンや教職員などになった同世代の仲間もいる。

店頭で居眠りをする親、夜逃げする商店主もいた

後述するように、70年代半ばを境に大須商店街は見事なまでの復活劇を遂げたものの、90年代初頭のバブル崩壊によって、再び低迷した時期があった。その頃に小・中学生だった、大須商店街連盟 常任理事の井上誠さん(45)は強く印象に残っていることがある。

「学校から帰ってくると、親が店頭で居眠りをしていたのを見て、『うちの店、やばいんじゃないか……』と不安になったことがあります。鏡などの額縁屋だったのであまりバブル景気に左右されることはなかったのですが、それでもお客さんがあまり来ていないのは明らかでした」

両親からは店を継ぐようにずっと言われてきたが、子どもながらにこの商売は続かないと感じていた。結果的に井上さんが後を継いだ際にはおもちゃ屋に業態転換した。

バブル崩壊後の大須商店街は、かつてのようなシャッター商店街にはならなかったものの、店舗の入れ替えが激しくなったり、中には夜逃げしてしまうオーナーもいたりしたという。

そうした浮き沈みの激しい状況から、大須は一体どうやって今のような活気ある街になったのだろうか。

時流に乗る…パソコンブームで戻ってきた客足

時計の針を1970年代に戻そう。

戦後復興を果たし、にぎわいを取り戻した大須は、たった十数年でシャッター商店街に成り下がってしまった。昼も夜も人通りがまるでなく、もう大須は終わったと思われ、多くの市民がこの街のことを忘れかけていた頃、起死回生のチャンスが舞い込んでくる。

一つは「アメ横ビル」の開業だ。当時、映画館などを経営していた地主が、このままでは商売が立ち行かないと業種転換し、1977年に電気店やパソコン部品ショップ、輸入雑貨屋などが集まるビルを建てた。

これが「ラジオセンターアメ横」(現在の第1アメ横ビル)である。ちょうどこの年に、日本初のマイクロコンピューターが登場。さらには米国のApple社が「Apple II」を発売したことで、日本でもパソコン熱が高まっていた時期だった。

電脳街になるきっかけを作ったアメ横ビル
筆者撮影
電脳街になるきっかけを作ったアメ横ビル

そうした時流に乗って、アメ横ビルには平日、休日関係なく客がやってきた。

「あのような商業施設が大須にできるのは初めてで、とにかくすごい集客力でした。それも毎日ですよ。そこから客がアーケード街を回遊したので、一気に人通りが増えました」と堀田さんは回想する。84年には第2アメ横ビルもできて、瀕死ひんし状態だった大須商店街は息を吹き返した。