「ホテル客室係」だったおかげで釈放

すでに述べたように、偽造身分証明書は通常、写真を依頼者のものと貼り換えるだけで、もともと「台紙」に書かれていた氏名や生年月日などの記載はそのまま活用する。手を加える箇所が増えれば増えるほど、偽造が露見する危険性が高まるからである。

このユダヤ人女性の苦情は、ホテルで客室係として働く貧しい年配女性までが、ユダヤ人のために自分の身分証明書を差し出してくれた事実を示す。だが、かつて裕福だったこの商業顧問官夫人にとっては、身分証明書を提供してくれた者への感謝よりも、自分が卑しい身分の者とみなされる屈辱のほうが重要だった。

女性の剣幕に辟易へきえきしたカウフマンは、こう答えてシェーンハウスに水を向けた。「奥様、それについては私ではどうにもなりません。専門家の意見を聞いてみなくては」。シェーンハウスは即座に言った。「無理ですね。職業欄は手書きで記されています。手書きの部分はいちばん偽造が発覚しやすい箇所なんです。証明書が使い物にならなくなりますよ」

結局、商業顧問官夫人はしぶしぶ「ホテル客室係」と記載された身分証明書を受け取った。それから2週間後、スイスへの亡命を試みた彼女は、国境付近で警備隊に捕えられた。だが警備隊の詰所に連行されてきた彼女を見て、隊員のひとりが言った。「誰だい、この婆さんは。なんだ、ただのホテル掃除係じゃないか、さっさと解放してやれよ」。商業顧問官夫人は、「ホテル客室係」と書かれた身分証明書のおかげで釈放されたのである。

身分証をあえて「紛失」する

このように見てくると、カウフマン・ネットワークとはユダヤ人や半ユダヤ人たちによる自助グループであり、活動を担っていたのも大半がユダヤ人だったかのように思えるが、彼らの活動の背後には、ユダヤ人よりもはるかに多数のドイツ人協力者がいた。

では、ドイツ人たちはどのようにカウフマンの活動にかかわったのか。シェーンハウスは、1942年12月に初めてカウフマンの自宅を訪ねた際、大量の身分証明書を見せられ、こんな説明を受けている。

いいかい、君。この身分証明書は教会の信者たちが寄付してくれたものだ。彼らは教会の募金箱に、現金の代わりに自分の証明書をこっそり入れてくれるのだ。この方法なら、彼らが冒す危険も少なくて済む。身分証明書の紛失は誰にでも起こりうることで、罰則の対象ではないからだ。

(シェーンハウス 前掲書)

このことばからもわかるように、ドイツ人救援者は、カウフマンたちのために自分の身分証明書を偽造用の「台紙」として差し出した。彼らは後日、身分証明書を紛失したと役所に届け出て、新たな証明書を受け取ることができた。