朧月夜と朝顔の対照的な愛欲のあり方

そういう魅力の少ない女性とは逆に、激しい情熱に源氏を狂わせてしまう女たちもいる。

そのなかで最も対照的な一組を選ぶと、朧月夜おぼろづきよ尚侍ないしのかみと、朝顔あさがおの斎院である。朧月夜はその肉体によって源氏を夢中にさせ、彼の人生を動顚させてしまうし、朝顔は最後まで源氏に身を許さないことによって、やはり彼の家庭生活に波乱を生じさせる。これは両極端なひと組である。そしてその共通点は、源氏を徹底的に支配し、前後を忘れさせてしまったという点である。

男に身を許してしまったら女の負けであるという説が世間にはある。また、逆に、男女の仲は結局、肉が関与しなければ続くものではない、という意見も一般化している。しかし、朧月夜と朝顔との場合を見ると、男は相手の女の肉を知ればしるほど深く溺れていくということもあり、また、逆に拒否されればされるほど惹かれていくということもある、という真実が見られる。

つまり、両極端の通説が、相手の女次第でどちらも否定されるような恐ろしい事態が発生する、ということで、男というものはなんと弱いものであるか、ということにもなり、そのように弱くなって女の自由になっている瞬間の男は、あるいは彼の生涯のなかで最も幸福な状態にいるかもしれないとも思われる。それが愛欲の不思議さというものだろう。

『源氏物語』の作者・紫式部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『源氏物語』の作者・紫式部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

源氏を失脚させるほどの「危険な恋」

源氏が朧月夜を知ったのは19歳の時だった。そしてその関係は50歳近くまで、30年間にわたって断続して続くのである。

宮中の桜の宴の果てた後、若い源氏は酔った勢いで後宮の庭をさまよい歩いているあいだに、ひとりの見知らぬ高貴の娘が「朧月夜に似るものぞなき」と古歌を口ずさみながら通りかかった。春の夜の宴会のあとで、心の浮きたっている娘に闇のなかで出会う。それは浮気心をかきたてるすべての条件が、そこに集中したようなものである。

源氏は娘を一室に抱きこみ、そのまま深い仲になる。別れる時にお互いの扇を取り換えて、名前は知らせずに立ってしまう。いかにも一時のはかない浮気心にふさわしいやり方である。

ところがこの一時の出来心が、それだけでは終らなかった。

その女は、源氏の兄帝のところに入内することに決っており、しかも彼女の姉は宮中を支配していた弘徽殿こきでんの女御で、彼女の一族は源氏を政治的に敵視して、失脚させる機会を狙っていたのである。それなら2人は関係を断ってしまえば安全なのに、女は兄帝の寵姫となった後も、積極的に源氏を迎え入れた。

そうして隙をみては、あるいは宮中で、あるいは女の私邸で、危険きわまりない密会が続けられ、ある日、とうとう彼女の父に現場に踏みこまれてしまう。

こうなっては、源氏の保身の唯一の手段は、都を離れることである。そうして彼の須磨流遇の時代がはじまる。つまり、この女の官能の魔力が、とうとう男を社会的に失脚させてしまったのである。

源氏の兄帝はしかし、この朧月夜を愛していた。そして源氏に対する彼女の想いも知っており、寝室のなかでも源氏のことをいい出しては、彼女を苦しめた。帝は一方で弟の源氏をも深く愛しているのだから、優しい帝の態度は、なおさら彼女にはつらかった。

それなのに、源氏が政治的に復活して帰京すると、2人の関係も復活してしまう。その愛欲の強さは、理性の力をあざわらっているように思える。