「ねえ、運転手さん、さっきの人を待ってあげて。」
私はみなさんが座席に腰を下ろしたのを確認し、ゆっくりとバスを発車させる。朝や夕方のラッシュアワーにくらべて、お昼時は運転士の私もリラックスして運転できる。会社や学校に遅刻したらいけないとイライラしている乗客がいないからだ。
お年寄りの乗降に時間がかかり、定刻よりやや遅れたものの、順調に運行していた。すると、200メートルほど続く直線道路の途中で、歩道にいるおばあさんが杖を振って、こちらに合図を送るのが見えた。この先50メートルほどのところにバス停がある。おばあさんはバス停に向かう途中で、バスを見つけ、合図を送ってきたのだ。だが、当然こんなところで停車することはできない。おばあさんを追い越してバス停に停車した。
私は、バス停の近くでバスに乗ろうと急いでいるお客の姿が見えたら、できるだけ待つようにしている。だが、50メートルは微妙な距離だった。しかも今日は定刻よりも少し遅れている。これ以上遅れるわけにはいかない(*8)という思いもあり、おばあさんには申し訳ないがスルーさせてもらおうと、ドアを閉めたときだった。
「ねえ、運転手さん、さっきの人を待ってあげて。私の友だちの春ちゃんなの」
乗客の一人に背後からそう声をかけられた。こうなるともう待つしかない。いったん閉じた扉を再び開けて、春ちゃんを待つ。
(*8)これ以上遅れるわけにはいかない:路線バスにおける「定刻」とは、「その時間より早くには出発しない」ことを意味する。だから、数分遅れることはしばしばあるが、いくらでも遅れていいわけではない。乗客の中には急いでいる人もいるし、次のバス停で待っている人もいるからである。
謝罪もなく和気藹々と降車していった
こういったとき、たいていの人はバスを待たせるのは悪いと走ってきてくれる。だが、なかにはバスが待っていてくれるとわかった途端、走るのをやめてゆっくり歩いてくる人もいる。
春ちゃんは杖をつきながら、焦るふうでもなく、ずっと一定のペースで歩いてくる。こちらも気が気ではなく、何度も振り返ってその姿を確認するものの、ゆっくりした歩みは変わらない。タクシーじゃないんだから勘弁してくださいよ。
優雅に歩いてきた(*9)春ちゃんは「すみません」の一言もなく、敬老パスを見せながら乗り込むと、友人のおばあさんの隣に座った。すでに発車時刻を5分すぎている。私は腑に落ちない思いを抱えながらも、バスを発車させた。
春ちゃんは、隣のおばあさんに「昨日、歌舞伎座で海老蔵(当時)の歌舞伎見てさあ」などと話してご満悦である。降車ブザーがピンポーンと鳴り、次の停留所に停車した。座席を立ち上がったのは、春ちゃんと友だちのおばあさんだった。春ちゃんが乗車した停留所からこの停留所までは200メートルほどの距離しかない。この距離をバスで移動するために、春ちゃんはバスを待たせたあげく、一言のお礼も謝罪もなく、お友だちと和気藹々と降車していった。
この停留所は有名な美術館前にある。これから優雅に美術鑑賞をするのであろう。きっとシニア割引で。春ちゃんは、敬老パスで乗車し、1つ先の停留所で降車したにすぎない。これは当然の権利であり、春ちゃんは大切なお客さまである。だけど、どうにも腑に落ちない思いがしてしまうのはなぜなのだろう。
(*9)優雅に歩いてきた:同僚運転士は、バスを待たせてゆっくりと歩いてきた若い女性客に、車外マイクで「発車しますよ。お急ぎください」と言った。するとその女性は、お客さまセンターに電話し、「運転士に急がされた」とクレームを入れたという。同僚運転士は助役から厳重注意を受けることになった。