「よかったね。その程度で済んで」

「すみません。バスが停められないので、動かしていただけないでしょうか」私は低姿勢を保った。そもそも一般ドライバーの中には、道路をバス停が占有したり、法定速度を守って走る路線バスを憎々しく思っている人(*2)がいる。だから、一般ドライバーには謙虚な姿勢で対応するのが大切なのだ。

「申し訳ございません。よろしくお願いします」と、再度私は若い男にそう言う。「しつこいんだよ、おまえ」とこちらに捨てゼリフを吐いたあと、すぐに「ごめんな、あとでかけ直すわ」と電話相手に向かって謝罪してから、男はクルマを移動させた。

営業所(*3)に戻った私は、この話を在籍20年のベテランドライバーの有山さんにした。「よかったね。その程度で済んで」有山さんが意味ありげにそう言う。

「有山さんもこういう経験があるんですか?」
「私のはもっとひどいよ」

有山さんはそう口火を切ると、数年前の体験を語ってくれた。有山さんがいつもどおり運行していると、バス停に堂々と白いライトバンが停められていた。運転席に人が乗っているのが見えたので、私と同じように「どかしてください」という意味で軽くクラクションを鳴らした。すると、ライトバンから、いかにも“その筋”の男が降り、バスの運転席まで小走りで来た。

(*2)路線バスを憎々しく思っている人:法定速度を守っていると、車間距離をギリギリまで詰めてバスの後ろにピタッとつけたり、わざとエンジンをふかしてきたりする人が結構いる。しばらく後ろにピッタリつけて走っていたかと思うと、追い抜き際に窓を開けて「おせーんだよ!」と怒鳴られたこともある。
(*3)営業所:私の所属する営業所には150台ほどのバスが駐車でき、毎朝営業所から出発して各路線の運行に向かい、夜になって運行が終わると営業所に帰ってくる。営業所には大型の洗車機が用意され、建物の中には運転士の仮眠室や休憩室も完備。昨今は、バス運転士になりたい人を対象とした「バス営業所見学ツアー」が開催されることも。

激怒した男をなだめたことも

事情を説明しようと有山さんが窓を開けると、いきなり男は有山さんの胸ぐらをつかみ、「てめえ、何してんだ!」と怒鳴った。さらには、胸ぐらをつかむ手に力を込めて、窓から有山さんを引きずり下ろそうとする。怒鳴ったり、罵声を浴びせたりする人間はときたまいるが、いきなり胸ぐらをつかむなどふつうの人がすることではない。有山さんはひたすら謝り、なんとか相手の怒りを収めたそうだ。

怒る男性の握り拳
写真=iStock.com/Andranik Hakobyan
※写真はイメージです

「だからね、須畑さんは『殺すぞ』程度で済んでよかったんだよ」

理科の教師でもやっていそうな、銀縁メガネで線の細い有山さんは、なぜか勝ち誇ったようにそう言って笑った。では、バス停にクルマが停まっていたり、クルマに進路を塞がれていたりしたとき、どうするのが正解なのか。

会社のマニュアルによると、パーキングブレーキ(*4)をかけてシートベルトを外し、前扉を開けて停車している一般車両のところまで行き、ドライバーに「バスを停められない(通行できない)ので少し動かしていただけませんか」とお願いする、とある。たしかにここまで丁寧にやれば間違いないと思うが、クルマを移動してもらうためにわざわざバスを降りていく運転士はいないだろう。

(*4)パーキングブレーキ:バスが駐車する際、「プシュー」という空気が抜ける音がする。これはパーキングブレーキを作動させたときの音。旧型の路線バスは一般的な乗用車と同じで、ワイヤーでタイヤにブレーキをかけるサイドブレーキを採用している。これは「プシュー」と鳴らない。一方、昨今のバスは、ドラムに溜めている圧縮空気を解放することでブレーキを作動させ、タイヤを止めているのだ。