自分と対照的なものにあこがれる作家
『ノルウェイの森』では、何人もの作中人物が自殺します。この小説には、主人公のワタナベが、失われた友人たちにむけて鎮魂の思いをつづった手記、という趣があります。
はじめて『ノルウェイの森』を読んだとき、作中人物への鎮魂に託して、春樹自身の青春が哀悼されていると私は感じました。この私の印象は、当時の読者の反応として、それほど特殊なものではなかったはずです。80年代には、60年代に大学生活を送った人びとが著した、青春回顧の著作が続々と送り出されていました。
しかし、『ノルウェイの森』に描かれた世界が「60年代の皮を被った80年代」だとするなら、私の最初の感想はまちがっていたことになります。その時点ではまだ失われていなかった「日本の80年代」を、鎮魂のトーンで語った作品――それが『ノルウェイの森』なのでした。
この作品の主人公であるワタナベの愛読書は、スコット・フィッツジェラルドの『グレイト・ギャッツビー』です。フィッツジェラルドは、アメリカがバブル経済に沸いていた1920年代を象徴するような作家でした。そして春樹は、『グレイト・ギャッツビー』をはじめ、何冊もフィッツジェラルドの翻訳を手がけています。
フィッツジェラルドを知りぬいている春樹が、80年代の日本の好況を、20年代のアメリカバブルと同様、「いずれ失われるもの」と見ていたことは容易に想像できます。実際、バブルのさなかに春樹は、「スコット・フィッツジェラルドと財テク」というエッセイを書いてもいます(『村上朝日堂はいほー!』所収)。同時代の日本の世相から、20年代のアメリカを連想する回路が、80年代の春樹に存在したことはまちがいありません。
ワタナベ君が『グレイト・ギャッツビー』を愛読しているという設定は、この作品に、80年代バブル崩壊の予感がこめられていることの密やかなサインであった――現在の私は、そんな風にかんがえています。
春樹には、みずからと対照的な存在に、つよくあこがれる性質があります。たとえば、
「自分は、三島や川端のような、これみよがしの美文を書く作家ではない」
と語っていますが、春樹の好きなフィッツジェラルドやトルーマン・カポーティは、きわめつきの美文家として有名です。
早寝早起きを心がけ、毎日きまった分量の原稿を書く、というスタイルを、春樹は80年代から現在まで貫いています。これほどバブル的なものと縁どおい暮らしをしている作家は、めずらしいといえるかもしれません。
それだけにかえって、バブルに踊らされていた人びとへの強いこだわりが、春樹のなかにあったような気が私はしています。そのこだわりが、『ノルウェイの森』を書きすすめる原動力になったのではないでしょうか。