「素人」と「プロ」の逆転現象

Sとは反対に、緑が大きらいだ、という知りあいも私のまわりにいました。ただし、緑を好きか嫌いかにかかわりなく、「緑のような子」が身近にいることは、多くの友人たちが感じているようでした。

日本文学研究者
助川幸逸郎

1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。
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緑のような子――他人をどこまで振りまわすことができるかで、自己重要感を確認しようとするタイプのことです。『ノルウェイの森』がベストセラーになった80年代後半、「緑のような子」は、どこにでも一定の割合でいました。

いまの若者たちは、「緑のような子」がいたとしても、まともに相手にしない気がします。「ショートケーキだろうがチョコレートムースだろうが、欲しけりゃ自分で買いに行け!」といわれてしまうのがオチでしょう。

80年代は、日本人全体が、過剰な自己重要感にとらわれていた時代です。このころには、「素人の時代」という標語が、何かにつけて口にされました。

「苦労して身につけた『スキル』を売るプロよりも、ありのままでまかり通る素人のほうがえらい」

という感覚が、ひろまっていたのです。

AKB48とおなじく、秋元康によってプロデュースされた「おニャン子クラブ」は、そんな時代の空気を象徴するような存在でした。夕方5時台に放映されていたバラエティ番組「夕焼けニャンニャン」を母胎として、このグループがデビューしたのは1985年。売りだし文句は、

「普通の女子高校生が、クラブ活動感覚でアイドルをしたら・・・」

でした。それだけに、歌も踊りも、いまあらためてながめると、AKBに遠くおよびません。けれども当時は、

「歌も踊りもできなくてかまわない。いかにも芸能人という感じがしないところが逆にかわいらしい」

と思われていました。

バブルにむかいつつあった85年には、「素人」がもてはやされているのをながめ、

「自分だって、テレビに出るぐらいのセレブにはなれるはずだ」

とかんがえて、自己重要感を補強する人びとがいたのです。彼らにとって、スキルがあるから尊重されている「プロ」は、天与の存在価値だけで評価されているわけではないので、「劣等人種」なのでした(この感覚は、林真理子の『アッコちゃんの時代』に克明にえがかれています)。いまとなってはおそろしいほどの勘ちがいといえますが、当時の日本人は、自己重要感をそれぐらい肥大させていたのです。

こうした状況が生じた背景には、日本経済の地位が向上し、日本人の自己イメージが激変したことがあります。

第二次大戦後の日本論といえば、

「いかに日本社会は、欧米と比較して遅れているか」

を説いたものばかりでした。それとは異なる論調のものが発表されても、ひろく受けいれられることはまれでした。

ところが、日本の製造業がアメリカを追いぬき、日米貿易摩擦が表面化しはじめた80年代前半になると

「日本社会には、世界でも類を見ないすぐれた特性がある」

といった論調が主流になります。その種の日本論の代表作である山崎正和『柔らかい個人主義の時代』が刊行されたのが、1984年です。その5年前、1979年には、アメリカ人研究者が日本社会を礼賛した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・F・ヴォーゲル著)がベストセラーになっていました。

敗戦以来、日本人は、アメリカに対する劣等感にさいなまれていました。80年代はじめ、経済面でアメリカに対し優位に立ったことで、その劣等感は裏がえされて奇妙な優越感にかわったのです(1983、4年をさかいに、アメリカのクルマや服に対するあこがれを、日本人がなくしたことは、この連載の3回目にふれました)。

日本人の大半がすっかり舞いあがってしまった結果、天与の存在価値だけで評価される「素人」は、「プロ」よりえらいと思う人びとが現れたのです。「緑のような子」が至るところにいたのも、自己重要感を振りかざすことに、社会が寛容だったからに他なりません。