大災害があったとき、その対応にあたる内閣は危機対応を理由に政権延命できるものですが、あまりの無能ぶりがマスコミを通じて連日流れたこともあり、支持率は下がったままです。菅内閣の災害対応は、国民の間で「やっぱり自民党でなければダメだ」という空気を生んでしまいます。
自民党から見れば、このときに菅内閣を葬り去ることもできたのですが、発災当初に倒閣を言える人は、なかなかいません。震災の被害があまりにも大きかったからです。
総裁の谷垣禎一は、倒閣どころか菅の大連立による災害対応協力という話に乗ろうとまでします。大連立を止めたのは、小泉純一郎です。自民党内でも大連立に賛否両論あったところ、小泉は「健全な野党であるべきだ。協力も批判もできる」と一喝。谷垣に翻意を促し、党内をまとめたのです(日本経済新聞「永田町アンプラグド」2011年4月8日)。
退陣を求められても粘れるだけ粘る
民主党は、4月に行われた統一地方選に敗北し、5月には民主党から参院議長に就いた西岡武夫が菅の退陣を求める論文を読売新聞に出します。本格的な菅おろしが始まりました。6月1日の党首討論で谷垣が菅退陣に言及し、その日のうちに自民・公明・たちあがれ日本の野党三党が合同で内閣不信任案を提出しました。
不信任案に対し、民主党内の反主流派の小沢グループに賛成の動きがありました。この動きに民主党の創業者である鳩山由紀夫前首相が賛同すると、菅と鳩山の間で会談が持たれます。
菅は退陣を条件に不信任案否決の協力を取り付けます。不信任案が否決されると、菅は原発事故への対応を理由に続投を宣言し、党内でも反発が広がりました。菅は粘れるだけ粘りましたが、補正予算や特例公債法案など喫緊の法案成立により8月26日に退陣を表明しました。内閣不信任案提出から、およそ3カ月後のことです。
ちなみに、同じ状況に陥った三木武夫は、1年持ち堪えました。菅と三木の違いは、菅のときは参議院がねじれていたことです。特例公債法案を通さなければ予算が執行できないため、菅は法案成立を条件として退陣を約束したのです。
退陣表明の翌日には菅の後継を選ぶ民主党代表選が公示され、8月29日の両院議員総会で新代表の選出が行われます。
5人の立候補者の中から選出されたのは、改造内閣も含めた菅政権で継続して財務大臣を務めた野田佳彦でした。この時の菅後継の代表選挙で馬淵澄夫が勝っていれば、日本の運命は変わったと思いますが。などと言っても詮なきですが。