敗退したキリシタン武士が向かった先は…

この時入城した真田信繁(幸村)もキリシタンだったことは、『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第II期第2巻』(同朋舎出版)に、「もし、(後藤)又兵衛軍が劣勢に立たされているのを見た真田フランコが明石掃部とともに新たな攻撃を仕掛けていなければ、又兵衛軍は打ち負かされてしまっていたことであろう」(210ページ)と記されていることからも明らかである。

安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)
安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)

この明石掃部もジョアンの洗礼名を持つキリシタンだし、後藤又兵衛もそうだったことは兵庫県加西市にある菩提ぼだい寺(多聞寺)からキリシタン地蔵尊が発掘されたことで確実視されている。加西市の羅漢寺には宣教師の姿を写したと思われる五百羅漢像があるので、大坂の陣の後に多くのキリシタンがこの地に避難してきたのだろう。

なぜここにと疑問に思っていたが、千姫が姫路藩主本多忠政の嫡男忠刻と再婚した時、化粧料として与えられた十万石に加西市も含まれていると知って謎は解けた。千姫がキリシタンであったことは、小石川の伝通院にある千姫の墓にキリシタンの陰符が刻まれていることからも明らかである[詳しくは川島恂二『関東平野の隠れキリシタン』(さきたま出版会)を参照]。

千姫は忠刻に嫁いだ後も信仰を守りつづけ、自分の領地に迫害されたキリシタンを招いて保護したのだろう。千姫が始めた縁切寺(東慶寺と満徳寺)も、キリシタンの女性を保護するためだったという説が有力である。

家康が大規模な大坂城包囲網を築いた理由

こうした背景を考えれば、家康が伏見城から伊賀上野城に至る大坂城包囲網の城郭群を築いた理由はよく分る。関ヶ原の戦いの後も豊臣家は関白家という権威と巨大な経済力を持ち、イエズス会やスペインの支援を得て、幕府に対抗しようとしていた。

万一対応を過れば、豊臣ゆかりの大名家までが幕府の敵に回り、再び日本を東西に分ける大乱になる恐れがある。それを避けるためには、周到な準備と石橋を叩いて渡るような慎重さが必要だったのである。

【関連記事】
記録に残るだけでも側室は20人…歴史作家が検証する知られざる「家康の女たち」
だから織田と豊臣はあっさり潰れた…徳川家康が「戦国最後の天下人」になれた本当の理由
武田信玄を描いた肖像画はどれも武田信玄とはいえない…最新研究でわかった「戦国最強武将」の本当の姿
熊本城でも大坂城でも江戸城でもない…城マニアが「史上最強の軍事要塞」と断言する城の名前
信長でも秀吉でもない…徳川家康がひそかに自らの手本として尊敬していた戦国最強武将の名前