ガチャのたとえは「引き当てたなら自己責任で」という発想につながる

もちろん、子どもは生まれてくるときに「親ガチャ」を回す選択をしていないので、私たちは自分の親を引き当てたことへの責任を負う必要はありません。しかし、「親ガチャ」という言葉を使う限り、ソーシャルゲームの「ガチャ」を回したなら、自分が引き当てたものを自業自得として受け入れなければならないのと同じことが「誕生」について当てはまってしまいます。

「ガチャ」の発想で自分の境遇について語ることは、知らず知らずのうちに自分を自己責任論的に語ることにつながっている。つまり、自分の親に苦しめられている人が苦しみを語ろうとして、自分をさらに苦しめることになりかねないわけです。こうした理由から、戸谷さんは「親ガチャ」という言葉の使用に懐疑的な立場を採っています。

なんにでも「ガチャ」の比喩が行き渡った時代

実のところ、「ガチャ」という言葉は、「顔ガチャ」「隣人ガチャ」「会社ガチャ」「上司ガチャ」など運や偶然性の関わる事柄ならなんにでも当てはめられるようになっています。他にも、小説において「ガチャ」的な設定が用いられることも珍しくなくなり、KADOKAWAが運営する小説投稿サイト「カクヨム」には、「恋愛」や「魔法使い」などのいかにもありそうなタグと並んで「ガチャ」というタグがあります。もちろん、「恋愛」や「魔法使い」ほど多くはありませんが、記事執筆時点で184作品が登録されています。

こうした多用ぶりは、いかに「ガチャ」という言葉が現代の言語感覚に馴染んでいるかを教えてくれます。自分の力で境遇を変えることが難しい時代なのに、その責任を引き受けさせられる現代の閉塞感を、茶化すようにしてどうにか言語化し、他者と共有することができる。「ガチャ」にはそういう機能があります。哲学者の古田徹也さんは、こうした状況を「『ガチャ』の比喩が行き渡った所」と表現しています(※8)

しかし、偶然の要素があるからといって、何でも「ガチャ」の言葉でくるんでいると危ういのも確かです。「親ガチャ」がまさにそうです。「親ガチャ」という軽い表現でくるむことで、自分の苦しい境遇を茶化して扱いやすくすることのメリットは否定できませんが、それでも、この表現はいくつかの意味で自分を苦しくさせかねません。

(※8)古田徹也『いつもの言葉を哲学する』朝日新書, 2021, p.31