ガチャという冷笑とともに生きるのはマイナス面も

さらに、シニシズム(冷笑)の問題があります。重大な問題を茶化すことに慣れてしまうと、現状追認的になったり、問題をまともに取り扱うことを避けたりしかねないということです(※6)。「冷めた目」して皮肉や冷笑とともに生きることで状況から自分が切り離されたような感覚になるので、気持ちは一時的に楽になります。しかし、そのことが問題から逃げたり、問題を解決したりすることに対して消極的になったり、脱出や解決を図る他人や自分を否定的に見たりする態度につながることがしばしばあります。

「親ガチャ」という言葉を習慣的に使うと、ここで述べたような苦痛を抱えてしまうことにつながりかねません。従って、この言葉は、苦しみや不遇を表現する言葉としては避けた方がよく、苦痛を他者に伝える「ツール」としては望ましいとは言えない。私はそう考えています。

生まれるときに「親ガチャ」を回すことを選んでいない

哲学者の戸谷洋志さんは、私が上に述べたのとは違う理由で「親ガチャ」という言葉の使用に反対しています。単純な切り口から重要な論点を引き出していて興味深い議論です(※7)

戸谷さんは、「ガチャ」と「誕生」が偶然性を帯びるという点では似ていても、無視できない違いがあると指摘しています。ガチャには、「私」という主体がガチャを回す選択をするという要素があるのに対して、誕生では、子どもは「親ガチャ」を回す選択をしていません。

たくさん並ぶガシャポンの販売機
写真=iStock.com/font83
※写真はイメージです

そもそも、誕生以前に「私」は存在しないのだから「ガチャを回す」ことはできない。すごく当たり前のことですね。受け入れやすい前提です。しかし、哲学者の本領が発揮されるのはこの先です。この前提を受け入れると、自然と受け入れさせられてしまう別の論点について、戸谷さんは注意を向けています。

そもそも、現代社会の常識からすると、「私」は、自分の主体的な行為の帰結に対して責任を持つものです。これと「ガチャを回す選択をしたか否か」という論点を組み合わせると、私たちはガチャを回す選択をしたなら、私たちはその結果に責任を持たねばなりません。つまり、「親ガチャ」という言葉に隠れた発想を突き詰めると、子どもは自分の親を「引き当てた」ことに責任を持たねばならなくなるのです。

(※6)この論点については、次の本の第四章で扱いました。谷川嘉浩『鶴見俊輔の言葉と倫理 想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)
(※7)戸谷洋志「『親ガチャ』に関する覚書