相手に重たい気分を引き受けさせないという配慮

若者たちの間で「親ガチャ」という言葉が果たしている役割についての土井さんの説明を私なりにまとめると、次の通りです。

虐待や貧困に苦しんでいる状況をストレートに言葉にすると、相手に引かれてしまったり、重たい気分を引き受けさせたりすることになりかねない。でも、「親ガチャに外れた」と軽い装いで伝えることで、相手に伝えやすいだけでなく、自分自身も「この境遇は生まれのせいだ」と自己責任による過剰な責め苦を内面化せずにすむという効果がある。

「親ガチャ」は確かに親には優しい言葉ではありません。しかし、身の回りの友人たちへの配慮であり、その友人たちにさえ明かしづらいプライベートを、秘密にするのではなく、ほんの少し見せて感情の棚卸しをしたいというニーズから生まれた言葉なのです。このことは、この言葉に対する評価に関わらず、知っておいていい事実です。

格差がますます広がっているため、自分の力で境遇を変えることが難しい時代なのに、その結果は「自己責任」として引き受けさせられる。この閉塞へいそく感を表現するのに、「ガチャ」という軽さのある言葉を若年層は選んでいます。

こうした状況について、土井さんは、若者たちが「絶望すらしていない、こういうものだよね、と冷めた目で見ている」とコメントしています(※5)。「ガチャ」という自分を嘲笑うかのような言葉遣いには、宿命を背負った人間のような諦念(冷めた目)があるということです。

空を眺める女子学生
写真=iStock.com/maruco
※写真はイメージです

「親ガチャ」という言葉は自分をさらに苦しませかねない

「親ガチャ」という言葉を用いてコミュニケーションをしている若者たちの背後にある苦痛を軽視したり、抱えている事情や感情を無視したりする資格は誰にもありません。とはいえ、自分の苦境や閉塞感を茶化すようにしてしか言葉にできず、人にも見せられないことは望ましいとは言えません。「親ガチャ」という言葉が、それを使う人をさらに苦しめかねないからです。その理由を二つ挙げておきます。

まず、その言葉を口にしている自分や、自分の大切な人が「親」になった場合に、その言葉は自分に向け直されかねないこと。たとえコミュニケーションの便宜のために使われた言葉でも、「親ガチャ」という言葉が持つ「含み」は、親に対して棘となるのは確かです。この棘は、口にした自分だけでなく、その言葉を聞いた友人や知人に残り、自分や周囲の人が「親」の役割を担った際に苦悩の原因になるということがありえます。

(※5)引用は前掲記事ですが、次の文献でも同様の議論がなされています。土井隆義『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット, 2019