新聞記者は会社員である前にジャーナリスト
つまり、あくまで記者は会社の一員にすぎず、独自の判断で主張することはできない、つまり独立したひとりのジャーナリストとしては捉えていないということです。
それは果たして新聞記者のあるべき姿でしょうか。
ぼくの考えをさきにいえば、新聞記者は会社員である前に、個人として独立したジャーナリストであるべきだと思っています。
「新聞は公器だ」という人もいます。報道には社会的な役割があるからです。官僚が公僕として国民の奉仕者であるのと同様、報道人は社会のために働く存在でなければいけません。
その意識は取材する側だけではありません。新聞社から取材を受けた側は通常、謝礼をもらうことはありません。単に新聞社の事業に協力するのであれば、無報酬なのはおかしな話です。
新聞社は「金品の受授によって証言が歪む懸念を排除する」という理屈を主張するケースもあります。しかし取材を受ける側がタダでも応じるのは、「新聞を通じて自分が持っている正しい情報を世の中に伝える」というパブリックな気持ちを持っているからです。
小さなことに拘らないほうが面白くなる
取材記者が、在職中には社内の事情で書けなかった、しかし世の中に伝えるべきだと思うことを退職後に伝えるというのは、それは取材先から言葉を預かった責任でもあります。
さらに違う論点をあげると、そもそも新聞には、政治家や官僚、経営者たちの退職後の手記や内幕話などがあふれています。それは歴史的な価値があるから、記者が取材をして口を開いてもらっているのでしょう。
それにもかかわらず、「就業規則」を振りかざし、自社では退職者にまで口をとざさせようとするのは違和感があります。
もっと大きな視点から未来を考えたときに、そんな小さなことに拘らないほうが、日本の新聞もジャーナリズムももっと面白くなります。
在職中のことを書くなと言いだしたら、読売新聞の元エース記者で退職後に傑作『不当逮捕』を書いたノンフィクション作家、本田靖春さんはどうなるんですか。もちろん朝日新聞にも退職後に記者時代の過去を書いた人はいっぱいいます。そういう人を排除したら、そうとうつまらないジャーナリズムになりそうです。
実は、こうしたことをぼくのFacebookに書いたら、朝日新聞の若い記者からたくさんメッセージがきました。
「とても共感することを書いてくれた」
「退職しても好きなことも発表できないのか、とても悩んでいる」
「もっと自由に情報を発信したい」