すさまじすぎる「鳥取の飢え殺し」

勝利した秀吉は、次に鳥取城(城主・吉川経家)に攻め込む。

事前に商人を通じて米を高値で買い占め、米価を吊り上げた。これにより、鳥取城内では兵糧米の横流しが行われた。そこに城の周辺に十数もの砦を築いて要衝とし、補給ルートを完全に遮断。

鳥取城(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)
鳥取城(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons

籠城側はわずか一カ月で兵糧が尽きたという。餓死者が続出し、三木城のときと同じく城内では人肉を食する行為を行われたとされる。

秀吉と同時代を生きた竹中重門による伝記「豊鑑」には、

食料が尽きたため馬や牛を代わりの食料にするがそれもすぐに尽きて餓死者が出たため、今度は死んだ人間の肉を食べている。子供は自分の親の死肉を食べ、弟は兄の死肉を食べている。

とある。この城攻めは「鳥取の飢え殺し」と呼ばれている。

ここに明るく剽軽な男の姿はどこにも見当たらない。ただただ残虐なやり方といえる。信長からの中国地方攻略の命に完璧に従ったとはいえ、戦国の世とはいえ、ここまでやるとはいかがなものか。

おそらく、秀吉は自分の目的の遂行のためであれば、他人の命を躊躇しないのであろう。この思考は、晩年に顕著になる。

血縁の民間人を簡単に殺害

キリスト教の宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』において、天下統一を果たしたのちの秀吉の残忍さを記述している。

天正15年(1587)、秀吉は、自らの出生地である尾張国に、血縁関係にある貧しい姉妹がいることを聞きつける。彼女らは貧しい農民であったという。

秀吉は「彼女らを姉妹として認めよう、然るべき待遇をしよう」と、その姉妹に伝達。彼女らはその事を望んでいなかったようだが、強引に都に呼び寄せられる。姉妹は、運と幸運が授けられたと思い、できる限りの準備をして、幾人の身内の女性と一緒に都に出向いたという。

しかし、彼女ら姉妹は、京に入るやいなや、すぐに捕縛され、首を斬られてしまったのである。

なぜ、秀吉は血縁であったと思われる民間人を殺害したのか。フロイスは「彼(秀吉)は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし」てそのような酷い行いをしたと書いている。