女・子供200人を串刺しに

まず挙げられるのは、上月城落城後の行動である。

天正5年(1577)、秀吉は、信長から毛利家の支配する中国地方の攻略を託され、播磨国・上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻めた。

上月城に籠るのは、毛利方の武将・赤松政範。上月は、播磨・備前・美作3国の境界に位置し、交通の要所だったため、秀吉はここを抑えて、西国の大大名・毛利氏を攻めようとしたのだ。

では、秀吉はこの城をどのように攻めたのか? それは、秀吉が国元(近江国)にいる家来の下村氏に宛てた書状(下村文書)に記されている。

同年11月28日、城を包囲した秀吉軍。彼らが最初にやったことは、籠城側の水の手を断つことだった。そうしたこともあり、籠城側は忽ちのうちに困窮。秀吉方に色々と詫び言(降伏するとも伝えたのだろう)を言ってきたが、秀吉はそれを跳ねつけた。

そればかりか、垣を3重にして、籠城する兵士らが逃亡するのを許さなかった。その上で、あらゆる場所から、秀吉軍は攻撃を仕掛ける。12月3日、城に攻め込んだ秀吉軍は、敵兵の首をことごとく刎ねたのである。

これで終わりではない。むしろ秀吉の残虐性はその後に露わとなる。

城内にでもいたのであろう女・子供200人ばかりを備前・美作・播磨の国境に連行。子供は串刺しに、女性は磔にして虐殺したのである。

エグすぎる「三木の干殺し」

秀吉は、なぜそのような残虐行為を命じたのか。秀吉自身の言葉によると「敵(毛利)方への見せしめ」のためであった。

しかし、いくら敵への見せしめのためとは言え、非戦闘員である女性や子供を残忍な方法で大量に処刑するということは、戦国時代とはいえ、そう多いものではない。

秀吉の城攻めにおける苛烈さはこれだけではない。翌年の天正6年(1578)から始まる播磨の三木城(城主・別所長治)攻めの際も、秀吉は「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを展開している。

毛利方の援軍を待つ、別所は兵士だけではなく、家族や浄土真宗の門徒も含まれる「諸籠もろごもり」を決行した。その数およそ7500人。

秀吉は補給路を断つため、周辺の支城を次々に撃破。城内の食糧は次第に尽きていき、籠城する兵士たちは、鶏・牛・馬・犬などの動物を喰らい、それも尽きると、人肉を食するという「異常事態」となるのである。

1年10カ月後、追い詰められた城主・別所長治は、城兵の命と引き換えに自ら命を絶ったという。しかし、秀吉はその約束を守らなかったとされる。残った城兵は秀吉により、ことごとく殺害されたのであった。こうしたところも、秀吉の性格の低劣さを示しているだろう。