世界にいち早く進出したキャラクター
テーマパーク事業はアジアにも派生する。1992年にSPLの中国輸出のプロジェクトが始まった。
投資規模200億円(当時為替。出資内訳:中国政府50%、タイのフォーチュングループ45%、サンリオ5%)で、上海・浦東地区にテーマパーク開設が企画された。
それは中国にとどまらず1993年には中国・深圳でもテーマパーク設立の打診を受けつつ、タイ・バンコク、フィリピン・マニラでもそれぞれで20億円規模のミニテーマパークが建設されている。
現在残っているものは多くはないが、ポケモンやガンダム、少年ジャンプ作品などと比べても、ハローキティほど海外でテーマパークになったキャラクターは他に存在しない。
こうした外資からの投資呼び込みとともに、積極的な海外展開の基軸を担ったのが「サンリオショー」である。
1992年からシンガポール、インドネシア、フィリピンでショーを展開、1993年にはこれがマレーシア、韓国、台湾に展開された。
それに従いSPLの専属ダンサー、キャラクター、スタッフが5~20名規模で各地に派遣され、1994年に海外4カ所、1995年に8カ所と公演数を増やし、これだけでも数億円の公演事業売上が計画されていった。
あきらめの悪い会社
90年代後半に花開くが、実は1980年代から90年代初期に至る長い間、サンリオの海外展開は「冬眠状態」でもあった。
1976年とかなり早い時期に米国進出を果たし、流通もないなかでキティ人形を片手にセールスマンが個人宅を訪問して売り歩くようなドブ板から始め、ある程度人気は出た。
ハリウッド映画づくりからニューヨーク進出までさまざまな取り組みを行ってきた80年代、米国事業はずっと赤字のままだった。
そのくせ1990年になってもサンリオの海外売上高は全体の5%にも満たなかった。だがこのあきらめの悪い悪戦苦闘の中にこそ、その10年後に輝く種が眠っていたともいえる。
「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。
モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱。
シンガーソングライターのリサ・ローブを代表に、キティ好きアーティストは米国で多く登場し、遂にはレディー・ガガともタイアップも実現させている。
当時米国でキティは「おしゃれ」の代表となり、同時にマイノリティ人種やLGBTが反体制のシンボルとして使いだした。政治メッセージすら象徴する一大キャラクターとなった。