世界中で起きたキティブームの仕掛け

SPLも1996年ごろから外国人観光客が増加、ディズニーランドの5%と比べると倍となる全体の10%が外国人観光客といった数字もたたき出しており、そこから20年後に起こる日本のインバウンドブームの先駆けともいえる。

もちろん日本でも1997年ごろから華原朋美が身に着け、女子高生の間で「キティラー」が多く誕生していたこの時期、実はサンリオも意識的にブランドPRを活用していた。

四半期ごとに50~70人の有名芸能人に自社商品を送り、間接的なPRは戦略的に行われていた。

日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。

2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている。

ビジネスモデルの限界でやったこと

「日本国内」の売上は1998年の1400億円をピークに、現在の450億円までほとんど回復の機会がなかった。

これは新聞、出版、百貨店、アパレルなどの産業と同じくし、「モノを売る」というビジネスモデルの限界を示している。

対して、その後の20年間サンリオを支えたのは「海外」である。1990年代は70億円~80億円だった海外売上は、00年代に150億円前後、ピークの2013年300億円まで上がり続けていた。

米国は1976年から、欧州は82年から、アジア(上海)は92年からと、日本のソフトコンテンツ企業としては黎明れいめい期から海外に張り続けてきたサンリオは、00年代に入ってようやくその受益を糧にできるようになっていた。

だが本テーマのテーマパーク事業について言えば、実はこの海外が売上・営利ともにピークアウトし、いよいよ凋落が止まらなくなる2014年になって初めて変化が現れる。

皮肉なことに本業自体が危うくなってからしか、独立独歩で採算を目指すテーマパークは誕生しなかったとも言える。