司会者・タモリはどこがすごいのか。社会学者の太田省一さんは「その根底にはパロディ精神がある。モノマネでも、著名人の声色を真似るだけでなく、その人の言いそうなことまで模写してしまう。だからマニアックな趣味やきわどい社会風刺でも、誰もが笑える内容になる」という――。
タモリさん
写真=時事通信フォト
タレントのタモリさんが2014年8月28日、東京都内で行われた缶コーヒーの新CM発表会に登場。

深夜放送の概念を根底から変えた「オールナイトニッポン」

先日、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」55周年を記念して、ゆかりのパーソナリティ出演による55時間の特番が放送された。その豪華な顔ぶれのひとりとして登場したのが、タモリである。担当したのは1976年から1983年にかけての7年ほど。そこでこの機会に、現在のタモリの原点とも言えるこの番組を振り返ってみたい。

「オールナイトニッポン」公式ウェブサイトキャプチャ
「オールナイトニッポン」公式ウェブサイトより

オープニング曲「ビタースウィート・サンバ」もお馴染みの「オールナイトニッポン」は、1967年10月にスタート。それまで深夜ラジオと言えば、長距離トラックの運転手や看護師など夜通し働いているような、限られた人たち向けのものと思われていた。その常識を覆し、若者向けの音楽番組として生まれたのが「オールナイトニッポン」だった。ビートルズの日本公演が前年にあり、その影響でグループサウンズブームが巻き起こっていた頃である。

まず人気パーソナリティになったのは、糸居五郎、斉藤安弘、亀渕昭信などニッポン放送のアナウンサーたちだった。彼らは、音楽番組のDJであると同時に、リスナーの若者たちにとっての兄貴分的存在になっていく。ラジオというメディアの親密さ、加えて深夜という特別な時間帯が、パーソナリティをいっそう身近な存在にした。こうして「オールナイトニッポン」は、「若者の解放区」となった。

ラジオスターの登場

1970年代に入ると、2部制が敷かれるようになる。それとともに、パーソナリティもアナウンサーからタレント中心に変わる。

そこには、パーソナリティのジャンルに大きく2つの流れがあった。ひとつは、吉田拓郎や泉谷しげるのようなミュージシャン。ラジオの深夜放送は、あまりテレビに出ないミュージシャンの素の魅力を知る貴重な機会になった。歌のイメージと素のしゃべりのギャップに誰もが驚いた中島みゆきなどは、「オールナイトニッポン」出演によってファン層を広げたひとりだろう。

もうひとつの流れは、あのねのね(彼らはミュージシャンでもあったが)や笑福亭鶴光のようなお笑い系のパーソナリティである。コミックソング「赤とんぼの唄」「魚屋のおっさんの唄」などをヒットさせたあのねのね、明るい下ネタで人気を博した鶴光は、ともに「オールナイトニッポン」が生んだスターだった。

タモリがパーソナリティになったのもその流れのなかでのことである。ただそれ以前に、タモリはすでに「オールナイトニッポン」出演を果たしていた。