仏教の根本原理では、人間の心身が本当に感知できるのは「苦」という感覚だけである、と考えます。
「快」を感じるのは、もともとあった「苦」が減じた状態を「快である」と脳が情報処理しているにすぎない。「一切皆苦」、すなわちすべての感覚は「苦」でしかない、と。つまり、快楽というのは脳がつくり出したバーチャルな感覚なのです。
「年収は500万円欲しい」という欲望=苦しみは、それを達成すれば取り除かれて快楽を感じます。しかしそれもほんの一瞬です。慣れてしまえば、次なる「快」、より大きな「快」を求めて、自らにいっそうの「苦」を課すようになる。年収1000万円、2000万円、1億円とエスカレートしてゆきます。
これが人間の欲望のメカニズムです。このメカニズムには危険な罠があって、苦痛の刺激の中毒になって自分から苦痛を発生させるようになることです。
もっと強い刺激を欲して、身の破滅につながる危険な賭けに手を出す。あるいはお金に関する苦痛では飽き足らずに、心の問題で自分にダメージを与える。たとえば良好な人間関係を壊したり、うまくいっている仕事が台無しになるように仕向けたり。順調な仕事を投げ出して、別の仕事に転職してしまったりします。
苦しまない状態こそ、私たちが求めている「幸福」であるはずなのに、人間の心はそれを幸福とは認めてくれない。快楽の前提となる「苦」がないからです。だからわざわざ自分を苦境に追い込み、ひたすら自分に苦痛を与えては、その苦痛を解消して気持ちいいと感じるのです。
欲望のメカニズムに衝き動かされてお金を追い求めても、「苦」と「快」のサイクルに取り込まれている限り、本当の幸福は得られません。得られるのは快楽だけ。それもバーチャルな快楽なのです。
高収入を得ても幸せとは関係ない
本当の幸せとは何か。一番古い仏教経典の邦訳『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫)の中で、ブッダはこう語っています。
「世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること――これがこよなき幸せである」
世の中の浮き沈みに触れても、心の乱れを離れて安穏であること。それが最高の幸せである、と。